円谷英二

 ワシャの好きな言葉のひとつがこれだ。

「他人から『できますか?』と聞かれたらとりあえず『できます』と答えちゃうんだよ、その後で頭が痛くなるくらい考え抜けば大抵のことはできてしまうものなんだ」

 怪獣映画の巨匠円谷英二の発言である。

 この前向きな姿勢、ポジティブな考え方、これが70年前に「ゴジラ」を生み、その後、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」で一大怪獣ブームを起こし、ラドンモスラウルトラセブンに引き継がれ、ついに令和の世に「ゴジラ-1.0」を登場させることになる。

 円谷さんかいなければ、昭和以降の子供たちは、怪獣に出会わずに人生を過ごしてしまったかもしれない。

 円谷さんが映画関係者から「できますか?」と問われ、平然と「できますよ」と答えてくれたことに感謝する。円谷さんの「なんとかなるだろう」という適当さがあってこその巨大モンスターゴジラだった。

 ワシャなんか、映画館でゴジラ映画を観た後は、鉄塔を見るのが怖くて怖くて。暗くなり出すとゴジラが出そうで、懸命に家まで走ったものである。

 円谷さんが関わった映画は130を超す。18歳で「天然色活動写真株式会社」に入社し、兵役を挟んで再び映画の世界に飛び込み、現像技師、撮影助手、カメラマン。昭和17年には「ハワイ・マレー沖海戦」を特撮でとっている。そして昭和29年に「ゴジラ」が封切られ、少年少女たちをビビらせまくったのでした。

 その後、「ゴジラの逆襲」、「大怪獣バラン」、東京タワーを初めて壊す「モスラ」、「キングコング対ゴジラ」、「モスラ対ゴジラ」などの特撮監督を経て、昭和41年に放映のTBSの「ウルトラQ」に到達する。この時、円谷さん、65歳だった。昭和のこの時期で65歳というのは高齢者、お爺ちゃんだった。それでも円谷さんは仕事の手を緩めない。「ウルトラマン」を作り、「南海の大決闘」(ゴジラモスラ、エビラ)の特技監督を務める。「ウルトラセブン」では監修をし、最後には「日本海大海戦」の日本連合艦隊バルチック艦隊との死闘を映像に仕上げた。

 もちろん「日本海大海戦」も劇場で観たけれど、その迫力たるや、まさに旗艦三笠に同乗しているような錯覚に陥ったものである。こういった作品があるから映画は映画館で観るに限る。

 この「日本海大海戦」が円谷さんの遺作となった。昭和45年に68歳で逝去。今で考えると実に若い。そして死ぬまでやりたいことをやり通した人生だった。なんでも「できます」と答えて、実際にやってきてしまった方である。そのお陰でワシャらがどれほど恐がり(笑)、楽しませてもらったことか。

 今日、7月5日は円谷英二の誕生日だったのでちょいと触れされてもらいました。ホントは7月7日らしいけど、『偉人たちの誕生日366名言集』(日本地域社会研究所)のほうを使いました(笑)。