1年と70年

 昨日の産經新聞1面の「産經抄」がいい。5日前に98歳で亡くなられた「ハウステンボス」「霞が関ビル」「京王プラザホテル」などを設計した建築家の池田武邦さんの話だった。

ハウステンボスなど設計 池田武邦さん死去》

https://news.yahoo.co.jp/articles/3d937be69a02c275ef9105d6affc855b9a1219c

 なにしろ建築家としての経歴はすごい。しかし池田さんは自身の人生を振り返ってこう言っておられた。

「矢矧に乗っていた一年間に比べると戦後にやったことなんか、本当に大したことないんです」

 矢矧というのは、明治45年に竣工された防護巡洋艦のことである。防護巡洋艦とは舷側に装甲板を持たない艦で、足は速いが防御力が弱いのが特徴だった。

 これに池田さんは19歳の時に少尉候補生として乗艦した。海軍兵学校を卒業して2か月後のことである。その後、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦天一号作戦いわゆる大和の特攻に随艦として沖縄へと出撃。その途上で矢矧も沈没する。この時、矢矧は直撃弾12発、魚雷7本を被弾する。矢矧って小さな艦なんですよ。長さが134m、幅14mしかない。そんな狭いところに「鉄の暴風」が吹きまくった。コラムを引く。

《顔に大やけどを負った池田さんは、重油の海に放り出された。漂流して数時間後、凍死を覚悟していると駆逐艦に発見され、九死に一生を得る。》

 まさに地獄なのである。もちろんマリアナもレイテも・・・。

 その後、終戦佐世保海軍病院で迎え、健康を回復した後、池田さんは東京大学に進み建築を専攻して、その後の高度成長期の日本の建築を多く手掛けた。皆さんも池田さんの作品に必ず一度や二度は行かれているはずです。

 その人が、戦後に生きた70年よりも矢矧に乗艦した1年のほうが重かったというのだから、その戦いの日々がいかに凄まじい時間だったかが想像できよう。

 あの時代を闘ってくれた我々の祖父世代の人たちは、まさに池田さんと同様の体験をし、何百万人もの人たちがそこで命を落としたわけだ。池田さんは運がよかった。

 だが、戦後はコミンテルンの影響を受けたGHQや、左翼活動家の煽動にのせられ、あの時代の否定が定着してしまった。ワシャは辛うじて支那戦線に従軍した伯父や、学徒動員で輸送班で働いていた父親の影響を受けて、日教組の洗脳からはなんとか免れることができた。だから子供の頃から、大東亜戦争は正当な戦争だと確信している。

 そのあたりの想いと、池田さんのことを書いた「産經抄」を読んでぐっときたのだった。

 そもそも、日本兵は武士道に貫かれている。民家から強奪をし婦女子を強姦することを日常業務としている支那兵やロシヤ兵とは違うのだ。とはいえ日本兵だって生理的なものは支那人、ロシヤ人と変わらない。だから、民間に犠牲をださないためにも戦時下で慰安婦を軍が管理をした、そのことを論っているのが現在の韓国なのである。ベトナム支那やロシヤより酷いことをしてきたにも関わらずね(嘲)。

 ワシャは大東亜戦争で戦った伯父を尊敬するし、後方支援だったけれど敵機に襲われて生還した父を尊敬している。あわせてあの戦争を戦った父祖たちに満腔の敬意を表したい。

 もうひとつはどうでもいい話。

《『ちむどんどん』上白石萌歌の“高校生入浴シーン”に疑問の声「誰も止めなかったの?」「もう令和だよ」》

https://news.yahoo.co.jp/articles/e01e5b2f6c2e5592ba758dbef8fcb1969c3b5891

 今日は、ネーネーの良子が風呂に入っていたさー。昭和だろうと令和だろうと、人はみんな風呂にはいるさー。

 さらに言えば、風呂に入って話をすることで、語られていることが、まさに「裸の言葉」なんだろうなぁと視聴者に思わせる効果もある。我が家には上は91歳から下は2歳まで女性が沢山いるけれど、みんな「おっぱいが見えているわけでなし、肩が見えているだけで、この程度の露出は街にいくらでもいるさー」と言っていた。

 こういうくだらないクレームをつけてくるバカが芸術や文化を壊していく。真っ当な日本人はそのことを警戒しつつ、朝ドラを見ようね。この際だから、優子さんや下地響子さんにも入ってもらってもいいかもね。