犯罪者に人権などない

 先月の22日の日記《村西監督のツイート》 https://warusyawa.hateblo.jp/entry/2021/12/22/104333 でこんなことを言っている。 《加害者はキッチリとゲロさせ、最終的には獄門、磔、火炙りでも責任を取らせるべきだが、そのことばかりに目がくらんでしまってはいけない。脇にある問題点もしっかりと検証して、このような悲劇が普通の市民を襲わない仕組みを構築していくことが必要だと考える。》  残念ながら容疑者はなんの責任も取らないまま楽になっちまいやがった。こういう卑怯で身勝手なクソ野郎は言語道断であり、死んだからといって微塵も許すべきものではない。  もちろん支那のように死者に鞭打つようなことは嫌悪する。そういった行為は反吐が出るほどだ。  しかし、このクズは許されるべきではない。今日の産経新聞に、特集が組まれていて、「離婚後に人生が暗転した」とか「復縁を望むも失敗」とか書いてあったけれど、そんなものは健全な普通の人達も経験していることである。それでもみんな頑張って生きているのだ。  それを《多くの人を道連れに死にたいという“ゆがんだ願望”の実現に向け、周到に準備を進めていた》んだとさ。60にもなって何を甘えているのか。  人生に絶望したなら、さっさと自分だけで死ね。人様を巻き込むんじゃねえぞ。  この手犯罪には莫迦な「模倣犯」がついてくる。今回の東大前での馬鹿高校生もそうだったよね。模倣するこいつらは基本的に馬鹿なのだが、この馬鹿どもに解り易く「模倣することはリスクである」と意識させなければ、この手の犯罪はなくならない。  それにはどうするか。この北新地の放火犯、もちろん簡単に荼毘に付してはいけない。極力、そのみっともない姿を模倣者たちに見せつけること、その死体を晒しておくことが重要だ。浜辺で干からびたクラゲのような姿を、100年でも200年でも、ずっと特定施設で干物にして残していく。 「死刑になりたかった」と、この手の犯罪者は言う。おそらく池田小学校の宅間などは死刑執行の際にほくそ笑んでいたのではなかろうか。「死刑」を望むものにとって「死刑」では抑止にはならない。それ以上のものを示さなければクズの犯罪抑止にはならないだろう。  とはいえ、鋸引きとか磔とか八つ裂きなんていう刑は支那じゃないんだからやれないよね。とするなら刑死者に、あるいは今回の放火犯のように死んでしまった犯罪者自身に犯罪抑止のための仕事をしてもらおうではないか。  暴論なのは解っている。だが、お亡くなりになられた方々の無念をどうすればいいのか。ご家族、関係者の悲しみをどう償えばいいのか。  一般の健全な市民に見せるべきものではないが、そういったクズたちは、どんな方法を使ってでも、自分たちの末路を検索する執拗さを持っている。そこで「干からびたクラゲ」を見せつけてやれば、今回の阿呆な高校生も考え直したのではなかろうか?  宅間、京アニのデブ、今回の放火犯、東大前の刺傷犯など、クズはそこいらじゅうに棲息していると見たほうがいい。この暗闇で蠢く連中からどうすれば一般市民を守れるか?  もう犯罪者の「人権」など考えている場合ではない。