マヌケなのはどっちだ

 昨日の続き。『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』(岩波書店)に目を通してみた。内容はないよう(笑)。

 要すれば、不快な展示に対して中止を求めた人たちに対して、その意見を「検閲」と断じ、《公権力と結託した「人びとのヘイト」が炙り出す内向きで独善的な日本の姿。私たちの社会はほんとうに「自由」と言えるのか》と相も変らぬ自由国家日本であるからほざけるたわ言を繰り返しているだけ。ワシャの経験則からいうと、この手の輩は為政者が習近平ならば何も言わないし。

 前川喜平氏に代表される執筆者たちは、「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」と題された彫刻家の中垣克久氏の作品については、作品紹介の中でモノクロの小さな写真と、これまた小さなポイントでの解説があるのみ。それ以外に、238ページの本の中で「時代の肖像 絶滅危惧種 マヌケな日本産植物 円墳」と題された――作品と呼ぶのも嫌なんだけど、シロモノというか物体というか、はっきい言えばゴミの塊について――作品に触れているところはなかった。

 どうでもいい「慰安婦像」のことは、ほとんどの寄稿者が口を極めて語っている。根本的な問題がここにあると言わんばかりに。

しかし、高須クリニックの院長や、まともな歴史観を持っている識者たちが問題としているのはそこではない。ことの本質は「昭和天皇の肖像の焼却」や「マヌケな・・・」と題されたゴミの塊のほうなのである。

本書の中では「昭和天皇」の件についても触れているので、とくに触れていない、どちらかというと前川氏らが敢えて避けている「マヌケな・・・」のことについて書いておく。

このゴミ、外部を蓋う紙片に特攻隊員たちの遺書を使っている。ワシャはとくにこの点がいかがわしく、不愉快なのだが、これについては、ジャーナリストの上島嘉郎氏が的確に言っておられるので、それを写しておきたい。

「けっきょく、特攻隊は『無駄死にだった、犬死にだった、あるいは狂っていた』ということで、戦後受け止めてきたと思うんですよ。特攻隊に関して、その意味を見出そうとする考え方には、それは、戦争を美化するものだ、あるいは特攻隊を美化するものだ』というふうに、すぐに封じられてきたけれども、その~美化するとかしないかではなくて、とにもかくにも」

ここからが重要で心を打つんですが。

「あの時に、命を懸けて祖国を守ろうとした若者がいたという事実は消せないわけですよね。その彼らの思いを虚心に汲むということが、まず大切じゃないのか」

 ということなんです。

 日本という国を守ろうとして命を懸けた。そして死んでいった。それは間違いない。彼らのその気持ちを、彼らが守った後世の日本に住む日本人が、慮らずしてどうするのか、ということに尽きるとワシャも思います。

 特攻隊の若者たちがいたことを、芸術と称するものどもが、取り扱うのはいい。ただし、そこには一定の敬意があってしかるべきではないのか!

 少なくとも、あのゴミのような塊に「マヌケな日本人」などと命名した時点で、敬意の欠片もなく、彼らを使って政治的発言をしたいだけという作者の悪意を感じる。あれを見てそう感じない日本人はごくごく一部でしかない。芸術と称すれば、どんな非礼も許されるというのは、表現の自由をはき違えたものでしかなく、人には他者、とくに非常時に命を賭して国を死守した若者たちがいたことを失念しなければ、こんなマヌケなゴミの塊を「公費」を使って人目に晒すようなことはするまい。

 

 そのことにまったく触れない本は、まったく「あいちトリエンナーレ」の「展示中止」について、客観的なものと言えるものではない。

 

 人間なら、日本人なら、せめてあの若者たちのけな気な勇気に心を添わせようよ。