選良

「選良」という言葉を広辞苑で調べると、「すぐれた人を選び出すこと。また、その選ばれた人。特に、代議士をいう」とある。代議士は、衆議院議員のこと。つまり「選良」は衆議院議員とイコールなのである。「エリート」ともいい、「下部大衆から切り離されて政策決定の機能をはたす有能な少数者」をさす。

 しかし、昨今は「こいつで大丈夫かいな」という「選良」くんが多い。まぁ誰とは言いませんが、おおよそ「選良」というよりも「賤掠」と言いたくなるのもいますよね。国民に向かって「あまり知られてはいませんがプラスチックは石油からできているんです」と言ってしまうアホ大臣とかね(笑)。少なくともワシャはそんな人を「選良」って言いたくありません。各国の首脳に胸を張って「この人が日本の環境大臣です」と言えますか?

「選良」になりたくてしかたがない輩がいる。そういうヤツが今の「選良(笑)」の多くを占めているので笑うに笑えない。

 大村知事のリコールを実行した事務局長である。田中孝博氏、この人に経済ジャーナリストの須田慎一郎さんが直撃取材を敢行した。これは「虎ノ門ニュース」の3月29日の中で見られますので、興味のある方はそちらをご覧くだされ。

 ワシャが問題にしたいのは、その中身よりもこの田中氏が須田のオジキの取材に表れた態度についてである。この人の対応に「選良」の、「選良」になりたくてしかたがない人たちの愚かさがすべて出ていておもしろい。「選良」を選ぶ側は、この点をしっかりと見て、考え直さなければならないだろう。

 まず、須田のオジキと会見場所で会ったのっけである。もうこれ以上はないというほどの平身低頭をしてオジキを迎える。名刺を手渡す時もつねに頭を低くしている。

「これか!」

 ワシャは思った。地元にいる県会議員の後援者がワシャに「ワルシャワは頭が高すぎる」と言われたことがある。ワシャは人生、普通の挨拶をずっと続けてやってきた。ワシャは、ワシャの生き方に一点の恥じるところもないので、胸を張って生きている。だから物理的に頭が高いのかもしれない。

 でもね、田中氏の名刺交換の姿を見ていると、米つきバッタのようにオジキに対して平身低頭している。6回ですぞ・・・これをやっていなかったんだな、ワシャは。でもね、後援者の大物に「頭が高い」と言われようとも、普通の挨拶しかできない。米つきバッタは死んでもやれまへんで(笑)。

 そして田中氏、席について開口一番、取ってつけたように、媚びた笑みを浮かべながら「テレビよりすごくスタイルいいですね」とお追従を言ってしまう。初対面の人にこの軽さは痛い。饒舌なのだが中身のないこのあたりを、都道府県議たちの多く感じるのはワシャだけだろうか。国会議員になってしまえば、横柄になれるのだが、また国会議員予備軍の県会議員ではそうも言ってはおられない。口を空回りさせるのはタダだから、お追従ができるところは全てやっておく。空振りに終わってもいいじゃないか、取りあえず口に出しておこう・・・というのがどこかのマニュアルに書いているのだろうか?絵に描いたように田中氏のようなタイプが多いから笑える。国のことを考えると泣けてくる。

 そして、そんなお追従はまったく無視をしてオジキは質問をビシビシと投げていく。例えば「不正署名に使用されたアルバイト代の1500万円、PR会社のジェネシスに支払ったお金の出所は?」というふうに。

 オジキの切れ味に、田中氏はついてこられず、あるいは「イエス」or「ノー」で答えられるど真ん中の質問を、別の話で誤魔化そうとする。そのことがありありと見えてしまった。

 田中氏に先だって、高須院長と河村名古屋市長のインタビューも流れているのだが、彼らの毅然とした受け答えにはまったく揺らぎがなく、明快だった。「これは真実を語っている」と信じるに足る回答だった。

 それと比べてしまうと、田中氏のシドロモドロの答弁は、「選良」を目指す者としては落第ですな。

 

 昨日発売の「週刊ポスト」である。評論家の呉智英さんの連載が最終回となった。えええ!とても残念ですぞ。呉さんの「現実のバカ」を読むためだけに、裸のネーチャンにまったく興味がないのに各週で買っていたのじゃ。ううむ、これで「週刊ポスト」を買う言い訳がなくなったのう(寂)。

 この104回にわたった激辛コラムの最終回に呉さんは「民主主義」の話を持ってくる。

《「国民の政治常識が相当高まったうえでなければ、直接民主主義」に「よい効果は望めない」。いや、間接民主主義だって同じでしょう。「有権者ひとりひとりが賢明にならなければ、民主主義はうまくいかない」》

 仰るとおりで、実際に「大村知事リコール」の不正署名事件がなければ、田中氏はすんなり代議士になっていただろう。「選良」の質は「選挙民」の質と同等なのだ。呉さんは最後の最後にこの言葉を残していく。

有権者ひとりひとりが賢明になる社会など永遠に来ないのである。今世紀に入って衆愚社会論が公然と語られるようになった。そういう時代に我々は生きている。》

 蓋し至言である。

 もうひとつ、英文学者で評論家の外山滋比古さんの言。

《多くの民主主義国家が経済的に苦しくなっています。その主な原因は民主主義の根幹である「選挙」で、有権者の判断力が低下しているからだと思います。》

 ううむ、これも名言である。

 詳しくは『考えるとはどういうことか』(集英社)をご覧くだされ。