さらば雪風

 南太平洋に浮かぶコロンバンガラという島の場所を示したい。その位置に誘導するためにニューギニアから始めます。なんでこんな面倒くさいことをするかというと、通常の地図ではコロンバンガラ島はなかなか見つけられない。「中学校社会科地図」には、コロンバンガラ島のあるソロモン諸島は「世界の地形」という世界地図を示したページにはあるんですが、通常縮尺の地図からは割愛されている。だから世界地図の中では、直径30キロしかないコロンバンガラ島など判りません。縦横400キロの北海道ですら3ミリしかないもんね。

 オーストラリアの北にニューギニアが薩摩芋のように横たわっているでしょ。じっと見ていると芋というより蟹に見えてくるんですよ。左に突き出た半島がベラウ湾を鋏んでいるこれが左の鋏、右の鋏がニューブリテン島(付け根)とニューアイランド島(先端)で「フ」の字を形成している。付け根と先端部分の関節のところにラバウルがある。ラバウルから4時方向に延びるのがソロモン諸島で、最東端のマキラ島まで1500キロほどの距離にいくつもの島が並んでいる。ちょうどその中間地点にコロンバンガラ島がきれいな点を打ったようにあるんですね。

この島はほぼ円形で、ベブ山(1768m)という火山によって造られている島である。行ったことはないけれど、風光明媚ないいところだと思う。「雪風」の乗組員たちも「戦闘ではなく観光で訪れたとしたら」と何度も思ったに違いない。少なくともワシャならそんなことばかり夢想してしまう。

 ガダルカナル撤退後、この島の北海域でアメリカとニュージーランドの連合軍と戦ったのがコロンバンガラ島沖夜戦と言われている。

 昭和18年7月13日、ここに「雪風」が参戦した。この海戦では日本軍は敵駆逐艦1隻を撃沈、軽巡洋艦3隻を大破という戦果を挙げ勝利を収め、「雪風」はかすり傷ひとつ受けることなくラバウルに帰投している。不死身ですな、「雪風」は。

 その後、12月まで南洋で他艦の護衛任務にあたり、12月17日に呉に帰港して、そこで昭和19年の新年を迎える。1月10日に戦略物資輸送船団の南支那海での護衛任務につき、艦隊司令が戦死してしまうほどの攻撃を受けたのだが「雪風」は、やはり難をまぬがれている。

 19年の前半は日本本土への物資輸送の護衛に明け暮れたが、ついに日本の機動艦隊を滅亡に導くマリアナ沖海戦を迎える。6月19日のことである。日本軍、空母9、戦艦5、重巡11、軽巡3、駆逐艦28。対する連合軍は、空母15、戦艦7、重巡8、軽巡12、駆逐艦65の総力戦であった。

 日本海軍の乾坤一擲の海戦であったが、結果は、空母3隻と艦載機243機を失うという完敗だった。

 先日、お亡くなりになられた半藤一利氏は、このマリアナ沖海戦の総司令官の小沢治三郎中将を高く評価しておられたが、彼の編み出した作戦の「アウトレンジ戦法」(遠距離からの先制攻撃を何度も攻撃する方法)は、すでに多くの熟練搭乗員を失ってしまった状況ではかなり困難な作戦だった。小沢中将が駒として持っているのは速成で養成した未熟な搭乗員たちであり、彼らに体験を積ませる前に強硬な作戦を敢行させ、大敗北を喫している。搭乗員の練度など当然作戦計画の中に織り込んでおかなければならない。そういった意味において名将に列することはいかがなものだろう。

 この大敗の大海戦にも「雪風」は生き残る。もう同僚の駆逐艦の多くが海の藻屑となっているにも関わらず。

 さらに10月24~25日に、フィリッピンの東の海域で戦われたレイテ沖海戦。ここでは不沈空母と呼ばれていた「武蔵」が撃沈された。もうこの頃になると、日本海軍は死神のドラムに踊らされ滅亡に向かってひた走っているような印象すら受ける。

 しかし、「雪風」は生き残る。ここまでくると神がかり的な運の強さと言うほかない。

 その後、本土にもどり、輸送艦などの護衛などで日本周辺を廻航することになる。もうアメリカの潜水艦は日本近海を自由に行き来しており、日本の近海は極めて危険な水域となっていたのだ。

 このころ海軍が血道をあげて建造していたのが、戦艦から空母に急きょ設計変更された「信濃」であった。横須賀海軍工廠で竣工し、瀬戸内海に廻航中に魚雷の餌食となってしまった。「信濃」は戦わずして潮岬の沖に沈んだ。なんのための新造だったのか。もうこのあたりになると、海軍の首脳部はまともな思考力を持っていないとしか思えない。この「信濃」廻航にも「雪風」が従っていたのだが、これまた無事に呉に帰りついたのであった。

 昭和20年の新年「雪風」は呉港に停泊している。この時期に海軍首脳は「海の神風」である「回天特別攻撃隊」を編成する。もう完璧なバカなのだが、昨今の政府、厚生労働省の一連の動きを見ていると、海軍首脳を笑えないから泣けてくる。

 この「回天」の訓練にも「雪風」が駆り出されている。どれほど無駄な作戦で若い兵員が命を落としたことだろう・・・。

 そして、ついに万策尽きた海軍は「大和」にも特攻をさせることを思いつく。もうここまでくると危痴害なのだが、平時対応の優秀な軍事官僚には、戦時の決断など出来るはずがなかった。このために「大和」を旗艦として「沖縄特攻作戦」が敢行された。沖縄までの片道燃料で「大和」を特攻させることに、艦長の伊藤整一は「無謀ではないか」と反対をしていた。しかし、連合艦隊参謀長が「一億総特攻の魁となっていただきたい」というセリフを聴き、承諾をしたそうである。バカか!

 太平洋での戦争晩期の将軍たちの評価は、命を捨てたか、卑怯にも逃げたかで、大きく分かれる。もちろん卑怯者は論外であるが、命を捨てた将軍たちにも、もう少し頭を使って、例えば命を捨てるなら陛下に声をお届けできるようなかたちで、自らの命の捨てようを考えるべきであった。

 映画『男たちの大和』で、その華々しくも悲惨な最期はよく再現されていると思う。まさに兵士たちにとっては地獄だったろう。「大和」は2000名の乗組員とともに九州の西の海底に沈んでしまった。伊藤艦長ひとりで逝くならまだしも、多くの若者を連れて逝く権利がどこにあろうか?海軍の名将と言われた人たちは、アメリカと戦う前に、まず獅子身中の虫と戦うべきだった。

 話をもどすが、ここでも「雪風」は鉄の暴風の中を生き延び、仲間の救助を徹底して行った。

 この時、救助された艦隊参謀が「グズグズしていると敵機にやられるぞ、早く艦を動かせ」と催促したという。これに対して、「雪風」艦長の寺内は「余計なことを言うな。本艦の指揮官はこの俺だ!」と一喝し、救助活動を続けたという。さらに大破して漂流をしていた僚艦の「磯風」に横づけをすると、生存者を全員収容した後に現場を離れている。

 ここでも証明されたが、頭でっかちの参謀という職種がかなりの割合で日本の滅亡に関わっている。現場は現場の将兵に委ねたほうがいいことが多い。しかし、参謀本部とか参謀が机上の空論で、テメエの頭で考えた作戦を、現場に押し付けてくるから適わない。これは、現代の政府、厚労省自治体にも言えることであり、このことを肝に銘じないと大敗北は目の前にあると知れ。

雪風」はこの後、佐世保にもどっていく。ここで「雪風」の戦争は終わった。戦後は、特別輸送艦として、大陸からなどの引き上げに尽力をするのだが、それは蛇足なので割愛をする。

 名鑑「雪風」は歴史の中に去っていったのである。