雪風連戦

 永富映次郎『駆逐艦雪風』(出版協同社)という本がある。やや情緒的ではあるが「雪風」のことを記した一冊。この本で、「雪風」の生涯を追ってみたい。

 昭和15年1月20日佐世保で竣工した。この本では、その後、「昭和16年11月の初頭、呉軍港に係留」とあるだけで、佐世保から呉への経過、経路が書かれていない。ネットで調べても、「竣工後は呉鎮守府に所属」とあるだけなので、あるいは完成をみた「雪風」は直後に佐世保から呉に廻航され呉を母港として瀬戸内海で訓練をしていたのだろう。

 11月26日、「雪風」を含む第四急襲隊26隻が太平洋に乗り出していく。旗艦は軽巡洋艦「長良」である。この程度の艦が旗艦ということで、艦隊自体の重要性はあまり高く思われない。

 択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)では、空母6隻を中心に戦艦「比叡」「霧島」、重巡洋艦「利根」「筑摩」など23隻が3万人の兵員を乗せてハワイ真珠湾に向けて出港をした。

 12月8日である。「トラトラトラ」で真珠湾攻撃が始まった。「雪風」など第四急襲隊はというと、この日、停泊中のパラオで攻撃の成功を聞いた。その後、フィリピンのルソン島南端のレガスピー上陸作戦に参戦したのが、「雪風」の初陣だった。その戦闘で重油タンクに被弾して、ミンダナオ島ダバオに廻航し修理を施した。

 年が改まって昭和17年1月9日にダバオを出港。インドネシアのセレベス島北端のメナドを攻略するためであった。21日には、セレベス島南端のケンダリー侵攻、同じセレベス島とはいっても直線距離で700キロもの遠征である。 

そして27日には、ケンダリーから東へ600キロのアンボン島攻略戦、2月17日、南へ征くこと1000キロのチモール島最西端クーバン攻略戦と連戦する。まさにフィリッピンインドネシア海域を縦横無尽に駆けまわっての戦闘だった。

 2月23日には「スラバヤ作戦支援のために同方面に廻航せよ」という命令が下り、ここから小スンダ列島をなぞる形で西に進み、ジャワ島東部の「スラバヤ沖海戦」に突入する。この決戦は27日から3月1日まで続く。

 このスラバヤ海戦で日本海軍は大勝し、敵艦隊を撃滅したのである。しかし、沈没する敵艦船から海に放り出された水兵を「雪風」は救助をしている。その部分を引く。

《「雪風」の甲板上は異様な情景を呈していた。海上から拾い上げた約四十名の敵兵の群れでごったがえしていたのだ。》

 これは『雪風』ばかりのことではなく、やはり別働隊としてスラバヤ沖海戦に参加していた老朽艦の『雷』も同様に、沈没寸前の敵艦から376人の乗組員を救助している。イギリス海軍では士官が兵に対して「万一の時には、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれるから」といつも話していたという。

 やっぱり日本軍は他国とは一線を画している。このあたりのことは、惠隆之介『敵兵を救助せよ!』(草思社)に詳しい。

雪風』にもどる。昭和17年3月29日に、ニューギニア西部方面攻略掃討戦に参加し、その後、5ヶ月の連戦の傷を癒すために本土に戻っている。4月30日、『雪風』は母港の呉に帰還し、修理・整備をするためにドッグ入りした。

 5月22日、艦も兵員もリフレッシュし、次の任務地であるミッドウエーに出港していくのであるが、先の大戦の太平洋での戦いをご存じの方は「ああ、あの負け戦(いくさ)ね」と思われるであろう。

 太平洋での海戦のターニングポイントは6月5日のミッドウエーだった。多くは語らないけれど、山本五十六の焦りもあったろうし、艦隊司令の南雲中将のあまさもあった。なにしろ大惨敗で、山本が考えていた「勝利して和平交渉を」がほぼ壊滅した。

 この死闘を切り抜けトラック島に帰投したのが6月13日。そこから横須賀港に移ったのが6月21日、2日後には瀬戸内海へもどっている。7月30日にはラバウルに出動し、またトラックにゆき、8月12日には呉へ帰港した。

 9月4日、空母を護衛して横須賀港を出港し、トラック島に向かった。ここを基地として10月21日には南太平洋海戦を戦い、「雪風」の活躍もあって、日本軍は辛勝をおさめる。

 昭和17年末、死闘を繰り広げたガダルカナル島の放棄が決定され、そこからの撤収作戦に「雪風」は投入された。ガ島周辺海域にはアメリカの潜水艦が何隻が遊弋し、日本の艦船を餌食にしていた。このために補給が途切れてガ島が餓島と呼ばれる由縁となるわけである。

 またその海域は「駆逐艦の墓場」とも呼ばれていて、「菊水」「睦月」「朝霧」「吹雪」「叢雲」「夏雲」「暁」「夕立」「綾波」「高波」「早潮」「照月」「羽風」「巻雲」が海の藻屑と消えた。この中を「雪風」は生き延びてきたのであった。

 昭和18年になると、もうこの頃には、南洋の制空権、制海権アメリカに圧倒されていた。3月、「雪風」らが護衛する輸送団は、ニューギニア東部ニューブリテン島の北の海域で駆逐艦4隻、輸送艦8隻が敵の餌食になって沈没している。ここでも幸運な「雪風」は生き残った。

 4月から5月にかけて、アメリカはアリューシャン列島のアッツ、キスカに侵出してくる。太平洋の北でも南でも蜂の巣をつついたような状態で、しかし、ミッドウエー以降の艦船の払底で、生き残っている船は馬車馬のようにこき使われる。日本海軍はアッツ、キスカ対策で機動部隊の主力を南洋から呼び戻し、この部隊の護衛として「雪風」も東京湾に入っている。しかし、5月29日、アッツは陥落し2576人の守備兵は玉砕した。このためにアリューシャン海域には行かずに、そのまま呉にもどって傷を癒す修理に入った。

 こうやって見てくると、海軍の艦船というのは太平洋の西を北へ南へ、西へ東へと独楽鼠のように走り回っていたことがわかる。その間に海戦をし、護衛をし、上陸作戦を支援し、敵味方なく兵を救助し、輸送をし、ときには戦闘で命を落とし・・・と、まさに八面六臂の闘いをしていたことがわかる。

 これほど働き者の父祖を、父祖がもたらした平和の中で安穏と暮す我々が誹謗することができるだろうか。おそらく自分を含め大多数の日本人は、父祖が戦ってきた年月を耐えられるものではない。事実、父祖が命を賭して守った日本の近海を全体主義者が支配する国の戦艦、潜水艦が我が物顔に遊弋しているのだ。小さな島ひとつ守られぬ腑抜け国民が、命を賭けて広大な西太平洋とその沿岸を守ろうとした父祖を笑えるか!

 一緒に戦ったはずの朝鮮人は、その誇りを忘れて、日本から金をせびることに血道を上げているが、『駆逐艦雪風』の79ページに、激しい戦闘の合間の、ほんのわずかな休息で若い兵士たちが「雪風」の片隅の日陰で午睡するところが描かれている。ちょっと引きますね。引かないでくださいね。

《艦の一隅の物蔭で水兵が二、三人、枕をならべて死んだように眠っていたが、そのひとりのFU(越中フンドシの海軍用語)がはずれている。信号長がうなずいて言った。「仰角一杯ですなぁ。しかも四十六サンチ主砲の大和級だ」「俺なんぞ、もう水平を保つのがやっとだよ。君はどうだ?」「私も駄目ですなぁ。三十度がいいとこです」》

 こんな他愛もない戯言を言いつつ、「彼らを思いきり遊ばせてやりたいものだ」と上官はしみじみと言う。

 ここは明確に言っておくが、ワシャは人生で女性を買ったことがない。ソープランドには一度も行けなかった。ピンクキャバレーには先輩に連れて行ってもらったことがあるが、お店の女の子に触られると鳥肌が立って店を飛び出してきた。女嫌いということではないんですよ、ただ見ず知らずの女性とことをいたすってぇのが嫌なんですね。一般の女性と懇意になって・・・というのは人一倍大好きで・・・まぁそんなことはどうでもいいですが(笑)。こんな石部金吉でも、朴念仁でも、闘いの後の興奮状態を鎮静するのが、異性との交渉にあることくらいは知っている。興奮状態の兵士を鎮静するのも戦略としては極めて重要なことなのである。

雪風」が走り回っていたこの時代、兵士と慰安婦というのは、ごく普通の関係で、兵士たちがナケナシの給料を手に、慰安所の前に行列をつくるなんてことは戦場では日常だった。もちろん金儲けをしていたのは慰安婦の背後にいる女衒たちであり、朝鮮半島ではその多くが朝鮮人であった。そういう時代であったことを忘れてはならない。

 長くなってしまった。そろそろ仕事に行かなければいけない時間だ。「雪風」竣工の1月20日にかたを付けようとおもったけど、まだ昭和18年でヤンス。ワシャの個人的な趣味の記録ということでご容赦くだされ。