ニャンコ哲学

 ワシャが『夏目友人帳』のファンであることは、時々載せるニャンコ先生のぬいぐるみやフィギアなどでご推察のとおりです。しかし、ニャにもニャンコ先生がかわいいから集めているのではニャいのじゃ。ニャンコ先生を、師として仰いでいるからに他ならない。それは、司馬遼太郎倉本聰呉智英日垣隆などと同列ということニャのだ。

 まぁニャンコ先生は『夏目友人帳』の象徴のようなもので、その哲学は著者の緑川ゆきさんの人生哲学そのものが、作品全体を覆っていて、これがまた心地よい。46歳でこれほどの哲学をお持ちとは、いやはや馬齢を重ねてきたワシャには仰ぎ見るような人物であるわい。

 今日の午後、劇場版の『夏目友人帳~うつせみに結ぶ~』がケーブルテレビでやっていた。ワシャは仕事で観られなかったけれど、とてもいい作品なんですね。すでに数回は観ているが、これは生きていくことと死の問題、出会いと別れの問題、人を思いやるという問題など、いろいろな「慈愛」のかたちが示される。

 これは劇場版なので、コミックとして完成された作品のアニメ化ではない。だから、緑川さんの思考がどの程度含有されているのかは分からないけれど、それでも作品全体に緑川哲学の香りがクンクンするんだニャ。

 物語はざっとこうだ。

 主人公の夏目貴志が隣町までお使いにゆく。そこで、老夫人に逢う。彼女はかつて、貴志の祖母との交流があった人で、貴志を家へと招いてくれる。そこで、老夫人の一人息子の椋雄と知り合う。

 そこに火の見櫓にまとわりつく妖とか、壁にひそむモンモン坊とかが絡み合って、いろいろな出会い、別れ、いとしい日々、懐かしい思いが錯綜する。忘れてしまうこと、忘れ去られてしまうこと、宝物のような記憶を失うこと、この悲しみを描いた本編は実に美しい。

 詳しくは本編をご覧いただきたいが、概要はここでも見られます。

https://natsume-movie.com/intro/

 

 人はやがて死ぬ。ひとつの例外なく。人の一生は短い。百年といっても妖(あやかし)と比べればあっという間だ。妖などという不確実なものと比較するまでもない。樹木と対比しても人の寿命は短いもんじゃ。

 人なんて、束の間、この世界を訪ない、そそくさと消えていく。まぁ哀れと言えばこれほど哀れな存在もなかろう。犬、猫ならまだ思考も未熟で、悩むこともなくて気楽なんだけど、人は中途半端に発達した頭脳でいろいろと考えるから、畜生と類えても不幸なんでしょうな。

 人が去ることは悲しいし、妖ですら心が痛む。しかし、出逢いもあり、交流もある。短い間だが輝くこともできる。

 自分が消えるのも恐ろしいし、生きた記憶すら消えていくのは寂しいけれど、この国の山川草木の中にもどって、永い歳月を祖霊とともに、愛しい人々と魂魄とともに過ごすのも一興かニャぁ。

 そんなふうに思わせてくれる「夏目友人帳」ニャのであった。

 

 こんなことを書いていたら大相撲の初日を見逃してしまったニャン。