死して余栄あり

 《【公式】深層深入り!虎ノ門ニュース》

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で、8月18日の百田尚樹さんと門田隆将さんの回がおもしろかった。李登輝さんにまつわる話が披露された。李登輝さんが「八田與市」と「六氏先生」を生涯を通して日本人の、彼らを尊敬してやまなかったという。

 まず八田與市である。彼は、司馬遼太郎『台湾紀行』(朝日文芸文庫)に詳しい。

 この人ね。

https://www.kanazawa-museum.jp/ijin/exhibit/05hatta.html

八田與一は、台湾で不毛の大地と呼ばれていた嘉南(かなん)平原に、堰堤長1,273mという当時では東洋一の規模である「烏山頭(うさんとう)ダム」と、総延長16,000kmにおよぶ給排水路を完成させました。その成果によって、嘉南平原は台湾一の穀倉地帯となりました。

  台湾では、このダムと給排水路をあわせて「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」と呼んでおり、與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾で多くの人々に慕われ続けています。》

 こういう人ですね。

 そして六氏先生である。

https://www.travel.co.jp/guide/article/17950/

 日本が台湾統治し始めた当初、教育にも力を注いだ。そこで送り込まれたのが、のちに「六氏先生」と呼ばれる6人の教師(楫取素彦、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬)であった。

 最初は、生徒6人であったが徐々に生徒数を増やし、周辺住民にも受け入れられていった。しかしまだ治安のかたまっていない台湾で、暴動が頻発した。心配した住民は彼らに避難を勧めましたが、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に殉じる覚悟で拒み、その場に残ったという。

 その後、時を待たずして、暴徒に襲われ、教師たちは惨殺された。

 リーダーは吉田松陰の妹の子供だったと記憶しているが、彼が言ったのが名言として残った。彼らは身に寸鉄も帯びず、潔く死んでいった。死を美化しているのではない。これがまさに「公」の心がけである。李登輝さんはそこを讃えている。見事な武士だったと尊敬しているのである。

 今でも六氏先生の碑は毀損されずに台湾にある。

 残念ながら、「八田與一」のほうは親中派の暴挙のために首を切断されるという事故があったけれども、八田を尊敬する台湾の人々によってあっという間に再建されてその年の記念祭を滞りなく終えている。

 ありがとう、心ある台湾の人々よ。日本は台湾とともにある。大陸の似非共産主義者が攻めてきたならば、一緒に手を取り合って戦おうではないか。

 ここにきてまだ親中を唱える愚かな政治家どもよ。足元を見ろ、「公」にめざめろ。このままだと二階俊博には死して余栄はないぞ。