まったく逆だ

 大コラムの「天声人語」が一日遅れで李登輝さんを取り上げている。そうは言っても訃報が入ってきたのが、7月30日の夜だから、そこからコラムを起こして出稿までとなると、31日の朝刊に間に合わせることはできなかっただろう。だから2日後の8月1日となった。それもやむを得ないと思う。けれどその時点では、もうネットに李登輝さんへの追悼記事や追悼ネタがあふれていた。これが紙媒体の限界である。

 一日遅れたくらいはどうでもいい。それを補って余りある名コラムなら、時間をかけて味付けをしたということで許される。

 しかし、今日のコラムはひどい。これを30時間もかけて書いているとしたら給料泥棒だ。

 まず駄コラムの書き出しを見てみよう。

週刊朝日に連載された「街道をゆく」で司馬遼太郎さんが、台湾で見かけた犬のことを書いている。日本の植民地時代を生きた老人に飼い犬の名を尋ねると、一呼吸置き「ポチです」。これぞ日本という名ゆえに、司馬さんは「言いようのない寂しさ」に沈む》

『台湾紀行』で「ポチ」の話が出てくるのは、後半の「大野さん」という章である。台湾原住の山地人を訪問した時のエピソードで、大野さんというのは、山地集落の酋長(司馬さんは「首長」と書いているけど)で、生まれてから35年間、日本人として生きた山地人(ブユマ族)の日本名なのであった。司馬さんの文章を引く。

 

「ところで、“大野さん”とおよびしてもいいのですね」

 戦後、日本名から中国風の名に変わったはずではないか。

「いいんです」

 この辺の人達もそうよんでいるし、大野さんもそうよばれることを好んでいるという。

 

 この章は、大野さんが日本にどういった印象を持ったかということに主眼が置かれている。まず、「大野さん」と日本名で呼ばれることを喜んでいることは理解できる。それは、日本統治時代に巡査、巡査部長を務めていたことも一因であると推察する。

 また、戦後にバレンシア・オレンジの果樹園を始める時も、日本に行って研究者から親切に手ほどきを受けたことも、日本に対する好印象を形作っていることは容易に想像できる。

 

 駄コラムにもどす。

 駄コラムは言う。

《日本の支配をくぐり抜けた台湾の人たちは、それぞれの日本式の名を持つ。》

 この後に、李登輝さんが「岩里政男」さんだったことを書きながら、李登輝さんが総統になるまでの経緯を列ねる。このあたりはすでに7月31日に他メディアが言いつくしているネタだけど、これをどう「ポチ」につないでいくのかが見えないなぁ。

 先の読めないコラムはいいコラムなんだけど、「天声人語」だから読めないまま終わりってのがよくあるので、油断は禁物だ。

 その後、駄コラムは「犬が去って豚が来た」を出してきた。まぁこれも言い古された台湾ネタですな。これを「台湾人の本音そのもの」と言いながら、こう続ける。

《李氏は日本支配に対する嘆きや恨みを公言しようとはしなかった。》

 おいおい、「天声人語」。李登輝さんの著書を読んだことがあるのか?李登輝さんに日本支配に対する嘆き、恨みなどあろうはずがない。どこをどう押したらそんな曲解ができるのか。ホント、イデオロギーに染まった左翼脳は始末に負えない。

《自宅を訪れた日本人記者の目の前で、曽文恵夫人を「ふみえさん」と呼んだことも。好むと好まざるとにかかわらず、日本語をすり込まれた歳月の長さを思わせて、やはり寂しい》と言う。

 ここで、駄コラム冒頭に司馬さんの言葉を引いた「言いようのない寂しさ」につないでいるのだ。

 だけどそこが違う。駄コラム作者の言う「寂しい」は、日本の自虐史観に塗り込められた、自虐史観に塗り込めようとする「朝日イデオロギー」でしかない。

 司馬さんの言っているのは、日本に犬を「ポチ」という古典的な名前が失われつつある、日本へ対する寂寥感なのである。

 李登輝さんは、朝鮮半島朝日新聞の連中と違って、一時期日本人であったことを誇りに思ってくれている。前述の大野さんしかりである。「日本語をすり込まれた」などとは1ミリも考えていない。そのベースがあっての「ポチ」の話を、この駄コラムニストは、まったく逆の話に仕立てやがって、日本全国のデュープスどもに配っていやあがる。

 とくにワシャの好きな司馬遼太郎李登輝を使っての洗脳行動に怒りが爆発してしまった。