災害を思う

 今朝、愛知県西三河地方は少雨という予報だった。だから外をのぞいて見たんだけど、ワシャの家は住宅街の中にあるので、小雨だと建物や樹木にさえぎられて、降っているのか降っていないのかよくわからない。今朝も出勤時に家の裏の路地に出てみても、とくに雨を感じない。じゃぁカッパを着なくてもよさそうだと、走り出した。

住宅地の中を抜けて、幹線道路に出るとポツポツと雨粒が顔を打つようになってくる。家を出た時に降っていなくて、今、降ってきたということではないんですね。小雨の時は、必ずこうなるので間違いない。ワシャの街全体に雨は降っている。しかし、住宅地の中のワシャんちは周囲の家々の建ち方や樹木の生え方でワシャの家の周囲は雨が降りにくい状態になっているようだ。何十年も住んでいて、最近、そのことに気が付いた。気が付く前は、雨具を持たずに家を出て、幹線道路で雨に降られていつもびしょ濡れになっていた。アホ。

 

 雨といえば熊本がひどい。死者が22人、行方不明者が11人に上っている。ワシャは2年前の8月に西日本豪雨の現場に入った。その時の惨状を目の当たりにしているので、今回もとても心配をしている。どうして、296人が犠牲になった西日本豪雨の教訓が生かせなかったのだろう。えぐれた山肌、泥に埋もれた住宅地を見れば、広島県呉市の状態とまったく同じである。このことに豪雨アラートは発令できなかったのだろうか。何かの対応をとるのに2年というのは短いのだろうか。

 災害というのは日本列島に住む我々とは切っても切れないものである。何千年と「ウィズ災害」で生きてきた。しかし、ここ百年ほどでその意識が脆弱になってきている。まず、江戸期以前の日本人ならぜったいに住まないようなところを住宅地として造成し、そこを金に換えてきた。河川氾濫に備えて遊水地としてある田んぼを、住宅地にしてしまうこと自体が間違っている。広島で土砂災害の酷かったところに「八木上楽地芦谷」という地名がある。本当は「八木蛇落地悪谷」と呼ばれていたが、「蛇が落ちる悪い谷」では聞こえが悪かろうということになり「蛇」を「上」、「落」を「楽」、「悪」を「芦」に変えてしまった。これでは脈々と受け継いできた地名に込められた情報がまったく断ち切られてしまう。

 さらに蛇足を加えると「八木」という地名は「岩の露頭や転石地」を指す。そこから言えば「八木上楽地芦谷」は極めて危険な場所を示す地名だった。

 ワシャくらい「地名」に詳しい人間は(高慢アホ)、字面を見ただけで「アラート」が鳴る。しかし素人には難しかろう。だからワシャは昔からある地名の変更に反対を唱えるものである。

 線状降水帯はどこにでも直撃する。日本列島に住まう人々に安全なところはない。しかし、最大限の警戒はしておこう。「窪」とか「水」とか「竜・流」などの地名のところに住む人はつねに降雨災害を念頭に準備をしておこう。

 

 災害といえばこれも悲劇に近い災害だわさ。

 東京都知事小池百合子氏が再選された。まぁ都民に選択肢がなかったから、仕方がないのだけれど、それにしても豊洲で都民に多大なる損失を与えておきながら、公約達成はほぼ0であるにも関わらず、圧勝を許してしまうとは、これが民主主義の限界なのかもしれない。韓国の文大統領にしても、小池都知事にしても、コロナ太りということである。本当はね、そういった突発的なことでも揺らがないリテラシーをつけておかなければならないのだけれど、ここが民主主義の限界であり、ムードに動かされることの多い住民による直接投票などもってのほかと言う識者の多い所以である。

 

 災害に対応するには、つねにリアルに災害のタネに向き合うことが大切である。くれぐれも「空気」に流されない、「同調圧力」に動かされない自分を確立しておくことが必須と言っていい。