保守について

 保守とはなんぞや?ということについて整理をしておきたい。

 まず、保守を定義するものは、革新派、改革派、左翼であると福田恒存は言っている。「なんのこっちゃ」と思うべからず。彼の論文の「私の保守主義観」にこうある。

《最初に保守主義というものがあつて、それに対抗するものとして改革主義が生じたやうに思はれがちだが、それは間違つてゐる。》

 つまり元来、保守などという考え方を人は意識して生活をしているわけではなかった。ところが、現状に対して強烈な不満をもつ因子が現われてくる。彼らは自らのイデオロギーに正当性を主張するために、その「敵」として保守が必要となったということ。

《保守派は眼前に改革主義の火の手があがるのを見て初めて自分が保守派であることに気づく。》

 そういうことなのである。

 

 コラムニストの勝谷誠彦さんは「保守とは教養である」と言っていた。大阪大学名誉教授の加地伸行さんは、その教養を「古典・道徳・宗教」であるとし、その教養が、今、危ないのではないかと警鐘を鳴らしている。

 憲政史研究者の倉山満さんは、著書『保守の心得』(扶桑社新書)の中で、《「保守」は、国を滅亡から救うためであれば、変化を否定しません。時代とともに変わり続けていくなかで伝統を守っていく、という態度です。》と言う。その上で「復古」とは似て非なるものだと断じている。

 

 西部老師が言う。

保守主義の姿勢を捨ててかかれば、自由は放縦に流れ、民主制は衆愚制に陥る。》

 老師は嘆く。戦後教育にどっぷりと浸かってしまった日本人の精神は、もはや精神といえないほどに歪んでしまったと・・・。

 

 司馬遼太郎の「保守」に関わる言説を示したいと思って、本を何冊かめくっていたが、さすがに朝の思いつきのことを、短い時間ではなんともならなかったわい。だから、司馬さんの言葉は引けなかった。

 しかし、もちろん司馬さんも「古典・道徳・宗教」を強く支持しており、「教養」に対しては貪欲に吸収し、発信していた方である。

 もう少し時間の取れる時に、「司馬保守論」を書きたいと思う。