単身かつて支那邦に到る(たんしんかつてしなほうにいたる)
火艦飛走す大東洋(かかんひそうすだいとうよう)
語を交ゆ漢韃と英仏と(ごをまじゆかんたつとえいふつと)
我が短を捨て彼の長を学ばんと欲す(わがたんをすてかのちょうをまなばんとほっす)
幕末の志士、高杉晋作の漢詩である。文久2年(1862)に高杉は支那に渡航している。その時のことを2年後に獄中で詠んだ詩である。なんと前途洋々たる雄大な詩であることか。
高杉を乗せた火艦(蒸気船)が東支那海を飛ぶように航している。やがて、上海に着いた高杉は漢族、満州族、イギリス人、フランス人と言葉を交わしていく。そして、日本の短所を捨てて、彼(もちろん英仏)の長所を学びたい・・・まさに、高杉のような実行力のある地頭のいい秀才が、侵食されつつある支那をその目で見たことは、日本にとって幸運であった。
高杉、こんな詩作もしている。
詩酒愛すべし(ししゅあいすべし)
美人憐れむべし(びじんあわれむべし)
時に喫煙して去り(ときにきつえんし)
一息天を過ぐ(いっそくてんをすぐ)
高杉、頭がいいばかりではなく、勇気があるばかりではなく、遊び方も粋だった。京の遊郭でも、田舎から出てきた芋侍は評判が悪かったが、高杉の一団は、遊女や芸者たちに人気があった。
高杉が、若い芸者をはべらせて、猪口に酒を注がせて「詩酒愛すべし、美人憐れむべし」なんて言ったら、こりゃもてまっせ。
この間、居酒屋で真似をしたら、つい口癖で「ルービー愛すべし、ジンビー憐れむべし」と言ってしまった(笑)。
先日、とある新年の会があって、そこでも詩が吟じられた。これが、ワシャの故郷にまつわる漢詩でいたく感しいった次第である。
矢作の清流三十里(やはぎのせいりゅうさんじゅうり)
山を廻り地を潤し三州を下る(やまをめぐりちをうるおしさんしゅうをくだる)
三河の歴史斯の川より起こる(みかわのれきしこのかわよりおこる)
悠久滞まること無し千古の流れ(ゆうきゅうとどまることなしせんこのながれ)
悠々と流れる矢作川が、俯瞰から、あるいは河口のアップで眼前に甦るようではないか。
ワシャは詩作をしない・・・というか詩を作る能力がない。しかし、漢詩を「いいなぁ」と感じる感性はあると信じたい。
春泥いまだ晒さず菜花のほとり(しゅんでいいまださらさずさいかのほとり)
学業途を同じくす五十年(がくぎょうみちをおなじくすごじゅうねん)
一夢人琴今は已みぬ(いちむじんきんいまはやみぬ)
傷心ただ見る旧山川(しょうしんただみるきゅうさんせん)
これは陳舜臣が司馬遼太郎に贈った弔詩である。司馬さんが彼岸に逝ったのが2月12日、ちょうど春泥の頃、菜の花が咲く頃であった。