「表現の不自由展・その後」の表現の自由について

 年一読書会の続きである。それぞれのメンバーの上半期一押しの一冊を紹介し合って、ときには攻撃し合って、ワシャが推した『まなの本棚』なんかは、「内容を見ると、これは完全にオヤジ読者にむけて書いた本で、ワルシャワさんは、まんまとその作戦に乗せられているアホオヤジだ!」と攻められましたぞ(泣)。

 

 その程度は序の口で、ついに午後4時をまわった頃に、メンバーの推薦本の『死者の民主主義』を引くかたちで「あいちトリエンナーレ」の話題を、チェリオくんが出してきた。少し議論をしたけれど、まさか「あいトリ」の話題が出ると思っていなかったので、準備していなかったゆえに、かなり押し込まれたなぁ(笑)。

 初めて参加していたワシャの関係者は、ワシャが守勢に回っているのを見て、驚いていたくらいだからね。有体に言えば、年一読書会はワシャがホストなので、深夜に及ぶイベントを円滑に進めようという忖度が機能したことは否定できない。

 その時の議論は「『表現の自由』はどんなことがあっても守らなければいけない」という意見と「『あいトリ』の津田氏監修で展示されたモノは、そもそも『表現』ではないので、展示するのに自由も不自由もない」の対立だった。

 その時にチェリオくんが持ちだしてきたのが、ここで名前を出すのも署名を出すのも気持ちの悪いある本(以後「ある本」と言う)だった。

ワルシャワさんが嫌いな『ある本』ですが、それはこの図書館に置いていないんですか?」

「置いてありますよ。しかし私はあんなクソ本は置くべきではないと反対した。しかし図書館の方針として置くことになった」

「それと同じじゃないですか。見たくない人がいるからといって本を棚に置かない。それが表現の不自由ですよ」

 取りあえずそこまでで反論はしなかったが、基本的な考え方を述べておくと、「昭和天皇の写真をガスバーナーで焼き、その灰を足で踏みにじる」「特攻隊員の寄せ書き日の丸や遺書の継ぎ合わせた『馬鹿な日本人の墓』と題したドーム」など「表現」ではない。ある識者が言っていたが「侮辱行為」以外の何ものでもないということである。

 百歩譲って、「あの本」は棚に挿しておく方が、「表現の自由」と言うことに関する限りチェリオくんの言うとおりである。

 しかし、今回の「あいトリ」の問題作品は、極論を言えば、本棚に置かれた汚物であり、司書はそれを速やかに取り除かなければならない。それは図書館という空間を守るためにである。

 憲法に「表現の自由」があるから、それに従うのは当たり前だ。それはそうだろう。しかし、憲法の上に存在する人間社会の根本的な規範に逸脱しているものに、下位概念を当てはめるのは、そもそも間違っている。

 文芸評論家の小川榮太郎氏がこう言っている。

《私が誰かを殴って、これは痛みを知るという「作品」であり、「表現」だと言って通用しないように、これらは「作品」でも「表現」でもなく、端的に「暴力」なのである。》

 暴力に表現の自由はない。