「不自由展」中止 その後

 昨日の朝日新聞の社会面にでかでかとこの見出しが出て、紙面の7分の5くらいを「不自由展」中止へのクレームと嘘で埋められている。

 のっけはこうだ。

《国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」(津田大介芸術監督)は、75日間の会期が残り1カ月となった。企画展「表現の不自由展・その後」が脅迫を含む抗議を受けて中止された問題は、再開を求める動きが相次ぐなど、波紋が広がり続けている。》

 まだやっていたのか。大村知事の軽挙のおかげで地に落ちた「あいちトリエンナーレ」はもうトリヤメナハーレ。昭和天皇のご真影を燃やしたり、日米国旗を貶めたり、そういった企画の好きな実行委員会が、展示再会を求める仮処分を名古屋地裁に申し立てたんだとさ。それを朝日新聞は同志として「波紋が広がる」と表現して応援している。テメーらが勝手に水溜りでバチャバチャと跳ねているだけで、飛沫が飛んで傍迷惑なんだよ。

 名大の先生で作家の森博嗣さんが『本質を見通す100の講義』(大和書房)の中でこう言っている。これは今回のトロエンナーレについて書いているわけではなく、フランスの雑誌社を襲撃した事件について数年前に書かれたものである。

《なにかというと「表現の自由」が損なわれた、と訴える声が上がる。日本では、たいていは性や暴力に関する表現が問題になる。》

 このことについてこう言われる。

《べつにその「芸術」を禁止するといっているのではなく、「公開方法を制限する」ということに対しての議論である。》

《ようするに、「表現」には手順というものがある、ということだ。誰にも、その大本の表現行為を禁止したり、非難しているのではない。公開のし方に工夫することで摩擦は避けられる。》

 森さんの仰るとおりなのだ。「表現の自由を侵害した!」とか騒いでいるが、まったく侵害していないのであって、問題なのは「公表」の方法なのである。誰かの写真を燃やそうが、薄汚いかまくらをこしらえようが、そのは本人の表現の自由なので勝手におやりやす。ただし「公表」に際して、大多数の人に不快感を与えるものについて、公の施設での「公表」はできないと言うことである。そしてそんな下品なモノ展示に公費は使えないというだけのことで、裁判所に持ち込むほどの話ではない。プロ市民の自宅で「私」で展示会をやればいいだけのことで、それで「表現の自由」は達せられる。誰も止めないからね。