播磨灘物語(続き)

 11日、高松から乗ったマリンライナーで岡山まで出て、そこで新幹線に乗り換える。ホームで上りのこだまを待っているのだが、いっこうに来る気配がない。時刻表によれば、すでにホームに入って来ていて、通過列車を待っているはずなのに……。

 目の前に派手な車両は停まっているんですよ。でも、肝心のこだまが来ない。「おかしいなぁ」と仲間と言い合っている時に気がついた。車両に付いている電光掲示板に「こだま744号新大阪行き」と出ているではあ~りませんか。ワシャらの乗る列車ではあ~りませんか。JR東海のこだま号とは違うデザインだったのね。ワシャらは見慣れた白とブルーの車両を探していたものだから、そりゃいつまで経っても見つかりまへんはなぁ。

 姫路着が17時35分、そこからホテルまで歩いて10分。ちょうど駅と姫路城の中間くらいにある場末のホテルといったところだった。だってぇ隣にソープランドがあるんですよ。同行者の中には女性もいる。さすがにソープの横のホテルに入っていくのは気恥ずかしい。

 チェックインを済ますと、荷物を部屋に置いて、もちろん!ソープには脇目もふらず、食事を兼ねて夜の姫路駅前の状況を確認に行くのだった。明日の朝も見に行くけれど、夜の景色も見ておきたいからね。ホント、健全な調査旅行である(自画自賛)。

 

 翌12日、午前5時30分に起床。午前中に姫路のNPO法人を訪ねる。姫路駅北駅前広場の整備

http://www.city.himeji.lg.jp/s70/2212598/_25050/_25051.html

についてのレクチャーを受けるためである。

会議の約束は午前9時半。でもねその前に姫路駅北駅前広場の日中の状況を確かめておきたかった。だから、食事をしたらすぐに出かけたい。とにかく身軽に動き回りたいので、この2日間にたまった資料とか本とかを箱詰めして宅配便で自宅に発送する。おおお、鞄が軽くなったわい。

 早朝からじっくりと姫路駅北エリアを観察し、その後、視察会場に乗り込んだ。事前の仕込み(予習)が充分にできているので、会議は内容の濃いものとなった。結局、予定時間を過ぎても、侃々諤々の議論が続き、ホスト側の予定していた現地での説明が短くなってしまった。でも、前日の夜、当日の朝と、現場を見ておいたから会議室での話でもよく解るんですね。

日垣隆『情報への作法』(講談社)、永江朗『インタビュー術』(講談社現代新書)などを読んでおいてよかった。

 昼まで、姫路のNPOの皆さんにお付き合いをいただき、食事を済ませて、午後から再び午前中のレクチャー検証のために駅前を巡った。復習である。時間があれば、姫路市文学館の司馬遼太郎記念室

http://www.himejibungakukan.jp/event_calendar/shiba/

にも行きたかった。が、なにせ時間がタイトなものですから、今回は司馬さんにご挨拶は叶わなかった。

 そして午後の調査を終えて、新幹線で愛知県に戻ったのであった。あ~疲れた。でも、充実した取材旅行だった。

 

 ところで、ここ2日の日記のタイトルが「播磨灘物語」となっているが、司馬遼太郎の『播磨灘物語』の話などひとつも出てきていまへんわなぁ。最後のところで「司馬遼太郎記念室」が出てきたんで、そこだけの絡みでは、ちょいとタイトルとしては弱い。

 これはですね、瀬戸内海の地図を見ていただくとよく解るんです。瀬戸内海の東部分は、紀伊水道、大阪湾、播磨灘、この3つの海から成っている。紀伊水道なんか外海じゃないのかと思うけれども、ここも瀬戸内海。淡路島の東側が大阪湾、ここはもう大阪湖と言ってもいいくらい内海である。そして淡路島の西側が播磨灘。ここも明石海峡鳴門海峡で括られて、西側は小豆島、直島諸島で蓋をされ、内海となっているのである。浜名湖だって湖なんだ。ここだって、まさに播磨湖と言ってもいい地形なのである。

 その内海の播磨灘をぐるっと一周するかたちで今回の取材旅行が成立している。淡路、阿波、讃岐、播磨。つねに進行方向右側に海を見ながらの旅だった。

 今回は業務上の取材だったけれど、この地域を歴史的観点から見るとさらに面白かったんですがね。国生みで最初の淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)、高田屋嘉平、阿波蜂須賀家、源平屋島合戦、そして黒田官兵衛播州である。こうやって考えると、この播磨灘という内海は、日本の歴史に深く関わってきたのだなぁ。この度は、歴史の「れ」の字にも触れることはできなかったが、また機会を得て、歴史の取材に訪なってみたいものである。

ということで、「まちづくり」という視点からの小さな播磨灘巡りということでタイトルをつけている。

 どのみち大した根拠ではなかったですね(笑)。