昨日の続き

 昨日のつづき。
 ただし、最後まで書いてみて「KHさん」では実感がわかなかったので、元の上司ということで「上元さん」(仮名)で行きたいと思います。

 暑い日に上元さん宅をお見舞いの水菓子を携えて訪問した。
 玄関に現われた上元さんは、思ったほどやつれてはおらず、ステテコ姿でこれは相変わらず昔のままだ。確かに痩せてはいるが、以前も細身だったので、それほどの違和感はない。
 客間に通される。娘さんが冷茶とくだものを出してくれた。そこで四方山話というか、ワシャの今後の活き方について報告やら相談をする。
「この歳になって分ったことだが、やりたいことをやっていないと人間はダメになる。ぼくも退職してから、再就職のようなことはしなかったが、しないほうが活き活きと生きられる」
 上元さん、一時期は副社長とも目されていたが、トップが入れ替わり、閑職に回された。それでもまったく腐ることもなくポジティブな考え方、とらえ方には、本当に元気づけられる、勇気づけられる。上元さんを含めワシャが尊敬して長く付き合ってきた人たちは、やっぱりモノのいい人だった。ワシャの人生形成にに大きな背中を見せてくれた先輩たちだった。
 上元さんは、ガンで食道を切除されたそうだ。9時間半もの長い手術を耐えた。本人は「普通、そのくらいはかかるんだ」と言っておられた。食道を取ってしまったので、胃を持ち上げて食道の代わりとしている。だから飲食物がストレートに胃に落ちてしまうので、もどしたりすることもあるという。流動性、粘着性があって、ゆっくりと胃に入っていくものならいいらしい。上元さんは「甘酒のようなものがいいんだけどね」と言った。おっと、ワルシャワの見舞いは「水菓子」である。それも甘酒をゼリーで包んだ老舗菓子屋のものである。エヘン。そしてかなり酒豪だった上元さんは「アルコールは全然飲めなくなった」と寂しそうにつぶやいた。
「でもな、スケッチは欠かさず描いているんだ」と目を輝かせて言ったものだ。その話になると上元さんは急に立ち上がり「ちょっと待てよ、スケッチブックを持ってくるから」と2階にバタバタと駆け上がっていった。元気じゃん。そして何冊かのスケッチブックを抱えて戻ってきた。
 浜名湖上高地などの風景もあり、裸婦のデッサンも何枚かあった。上元さんは、風景画の上手い方で、さらりとしたタッチの中に、ちょっとした憂いのようなものを込めるのが巧みだ。だから、上元さんの影響を受けて、ワシャの水彩画もサラリと言うか淡泊なものが多い。上元さんの風景画は壁に描けておくととてもいい雰囲気だ。ワシャの行く料亭にも飾ってありますぞ。
 ところが上元さんの描く裸婦は、風景画と打って変って尋常ならざるものである。コテコテ、ネットリ、ジュクジュク系の裸婦は、思わずゲップが出てしまうほど妖艶でエロチックでグロテスクだ。風景と裸婦のここまでの差はいったい何なんだろう。絶対に同一人物が描いた絵とは思えない。お見せできないのが残念ですぞ。
 かれこれ2時間ほど、お話を聴いていた。ワシャの話など、冒頭の5分程で、あとはずーっと上元さんの話に終始した。
 日が傾いてきて、そろそろ辞す時間がやってきた。上元さんの話は尽きないが、「もうそろそろ失礼します」と告げると、まことに残念そうな表情を見せて「そうか……」とだけ言われた。玄関では娘さんと並んで見送ってくれた。上元さんに「また顔を出します」と言うと「おう、また寄ってくれ」と笑顔を見せた。丁寧に頭を下げて玄関戸をしめた。
 庭先がちょっとした広場になっていて、そこに車を停めていた。炎天である。もう車はカンカンのチンチンだった。ドアを開けてクーラーを入れて、冷していると庭の奥のさっきまでいた座敷の掃出し窓が見える。網戸越しなのでよく見えなかったが、そこに上元さんが立って手を振っているではないか。見送ってくれていた。ワシャはあわてて車に乗り込んで、深々と頭を下げて広場から車を出し、上元邸を後にしたのだった。
 時間は流れているんだ、ということを久々に実感した。