世界市民

《乗客口論で男性電車に接触し重体》
http://www3.nhk.or.jp/lnews/shutoken/20180429/1000011136.html
 JR吉祥寺駅で、日本人と支那人が口論になって、日本人が電車にぶつけられて重体になっているそうだ。
 ニュース自体は一ファクトとして受け止めておこう。たまたま車内で他の客のことも考えずに大声で喚いていた支那人がいた。そしてこれも偶然に正義感の強い、どちらかと言えば保守的な日本人が乗り合わせていた。注意したら電車から引きずり出され、ボコボコにされて入ってくる電車にぶつけられた……という事件である。

 このニュースを読んで、ワシャは書庫に走った。といっても3mくらいのことだから「走った」は大袈裟ですね。司馬遼太郎『以下、無用のことながら』(文藝春秋)を取りにいったのである。この本は司馬さんのエッセイ集で、それぞれが短く独立しているので寝る前に読むのにちょうどいい。だから文庫本を寝床の脇に、単行本を書庫に1冊置いてある。
 そんなことはどうでもいい。そのエッセイに「日韓断想」という一文があるんだけど、その中で「文明」と「文化」についての司馬さんなりの定義が述べられていた。そのことを思い出して、前述の吉祥寺駅の事件にくっつけられるのでは……と思ったわけである。司馬さんの言を引く。
《文明とは多分に技術的でどの民族でもそれを採用でき、使用できるものを指す。》
 つまり支那人と運の悪い日本人が乗り合わせた電車というものは「文明」で、これは別の民族であっても利用することができる。だから他民族が同じ車両に乗り合わせることも多々ある、というか日常的なことですな。
《これに対し、文化は特殊なものである。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習をさす。》
 公共空間で大声を出す、傍若無人な行いも己が中心(中華)だから気にならない、これは大陸の文化である。反対に、公共空間では他者に迷惑をかけない、なるべく己の存在を消す、これが日本の文化である(もちろん違うのもいる。100%そうだと言っているのではなく、その割合が高いということを前提にしている)。
 異文化が接触すると悲劇は起こる、今回の事件はその一例と言える。つまり、文明は共有できるけれども、文化はどこまでいっても融合できない。「世界市民」などというものは夢想でしかない。