君たちはどう生きるか

 今朝の朝日新聞1面、鷲田清一氏の「折々のことば」。
《お笑いコンビ・カラテカのボケ役は、おっとりと上品な物腰の大家さんと仲良し。手をつないで散歩に出た時、年老いた彼女が覚束ない足どりを詫びてこう言った。》そうだ。
「年だからもう転べないのです 矢部さんはいいわね まだまだなんどでも転べて」
 鷲田氏はこの「ことば」を一時期話題に上がった「再チャレンジ」への皮肉をこめて引いている。そしてこう言う。《やり直しできるのは若者の特権。なのに、一度躓いて無能との烙印を押されればそこで終わり。やり直しを許してくれない社会はむごい》と。

 先日の読書会の課題図書が『君たちはどう生きるか』だった。その時にあえてディベートをするためにワシャから提起したことがある。『君たちはどう生きるか』をコペル君(15歳)の世代に示すのは意義のあることだと思う。それは参加メンバー共通の意見でもあった。しかし、ワシャらはすでに社会で何十年ともまれて生きてきた。目の前に道があるのではなく歩いてきた後方に道が踏まれて在るのだ。だからコペル君のおじさんの「人の生き方」の訓導は、もちろん意義のあるものだと思うけれども、定年退職をしたメンバーもいるのだが、自分も含めて人生の垢がこびりついている世代に、はたしてどれほどの指針を示せるのだろうか?というようなことで議論を吹っ掛けた。
 これに対して対論者は「年齢は関係ない。15歳であろうと、60歳であろうと、人として今をいかに生きるべきかは、常に自問自答していくべきであり、そのことにとって本書はまことにいい本である」というようなことを主張した。
 これは盛り上がりましたね。おそらく今年一番の白熱読書会ではなかっただろうか。話は「生き様」から「死生観」、そして「禅」、「坂の上の雲」、「銀河宇宙」も出てきたなぁ。
君たちはどう生きるか』は名著である。それは全く揺るがない。最初に読んだのは若い時分で、その時は今ほどひねくれた読み方はせず、素直に感銘を受けたような気がする。しかし、繰り返すがワシャの精神には垢が溜まり過ぎた。コペル君のようにはおじさんの意見がオジサンには沁みてこないのだ。
 物語の最後でコペル君はこう決心する。
《僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。》
 この冒頭にワシャは波線で傍線を引いている。直線は「なるほど!」ということなのだが、波線は「なに言ってんの?」というニュアンスである。山の裾野に立って坂を見上げているコペル君ならばいいけれど、山をほぼ登り切ろうとしているジジイが「すべての人がおたがいによい友だちであるような……」なんていう甘いことを言っていられませんわなぁ。

 そこで冒頭に書いた「折々のことば」である。
 コペル君はまだ何度でも転べる。むしろ何度も転んだ方がいいだろう。しかし、大家さんはもう転べない。年齢を重ねるということはそういうことなのではないか。転んでしまうと曲がりなりにも踏んできた今までの道すら見失ってしまう可能性すらある。転べるのは若者の特権ではないのか、そんなことをへそ曲がりの愚か者は思っている。

 でも「若者」というのは年齢のことではなく「気持ち」のことだということも実感しているんだけどね。