伝説の教師

 ちょっと今朝は長い。ほとんどのところは昨日の夜、「明日の朝はこんなことを書こうかなぁ」と思ってメモっていたら、思わずはまり込んで書いてしまったものである。実は後段に言いたいことが出てくるので、面倒くさい場合は前段をすっとばしてくだされ。

 昨日の朝、北原亞以子を読みはじめ床から出るのが遅くなったと書いた。読んでいたのは『たからもの』(講談社文庫)で、「深川澪通り木戸番小屋」シリーズの1冊である。この中に「かげろう」という編があって、これは寺子屋の女師匠の弥生にまつわる物語なんですね。これがほんのりとしたいい人情話で、心がふうっと軽くなるっていうか、人も捨てたもんじゃないなっていう読後感が味わえる。
 寺子屋に通う子供たちを一所懸命に育もうとがんばっている弥生なのだが、学問に歴のないこと(昌平黌を出ていないとか、名のある漢学者に師事していないとか、そもそも武士出身でないとか)を責められて、寺子屋をやめようと決心をする……というような話が展開していく。弥生にいくら子供たちをしっかり教育しようと思っても、周囲の大人の環境がそれを許さないのである。子供は子供で悪さをするし、先生って大変なんだなぁ。
 弥生は「お師匠さん」と呼ばれていた。現在では「先生」が一般的ですね。なかには「センコー」なんていうガラの悪いやつもいるだろうが、ワシャは真面目だったからそんな風に言ったことはない(笑)。
 寺子屋の話から、ある教師の話を思い出した。灘校の橋本武という伝説の教師のことである。橋本先生関連の本は2冊持っている。すでに掘り出してきてざっと目を通した。いい本は、いい人間は、何度、読んでも、会っても味わいがある。
 知っている人は知っているが、知らない人は知らないので、ちょっと説明すると、国語の教師なのだけれど、国語の教科書は一切使わず、中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)一冊を3年間かけて読破するというユニークな授業をやられたかたである。文庫一冊で国語の授業をすべてやろうというのは暴挙と言っていい。それをやった橋本先生もすごかったが、許した灘校もすごい。こういった環境で優秀な日本人が育つのだなぁ……とつくづく思った。
 そんな人が書かれた『一生役立つ学ぶ力』(日本実業出版社)である。なんだかノウハウ本のような題であるが、橋本先生の来し方がよく解る本で、先生の生き方から禅に通じる思想を感じた。「只管打坐」ただひたすら坐禅を組め。ただひたすら『銀の匙』を読め。そこから道は開かれん。
 こんな先生に教えてもらいたかったなぁ。

 と言いながら、ワシャにもそんな先生がいるのだった。小学校の高学年の時に担任だったY先生である。この方は学徒動員で戦争にも征かれた方で、ワシャの頃はまだそういう先生が何人もいた。ぴしっと背筋の通った、でも高圧的なところのない、実に優しい先生であった。今、小学校の卒業アルバムを見なおしているが、やっぱり凛々しい良いお顔をしておられる。
 Y先生は、中学校では英語の先生だった。その方が小学校に来て5年生の担任になった。ただ英語を話す先生をまったく記憶していない。高校の英語の教師で人の名前を呼ぶときにも英語風に呼ぶセンコーがいた(笑)。ワシャのことを「ワルシャワ」ではなく「ワルシャワ〜〜」と語尾を伸ばして呼ぶ。どこが英語風か説明できないが、そういった嫌味な雰囲気を、Y先生はまったくまとっておられなかった。
 むしろY先生からは漢籍について学ぶことが多かった。「刎頸比翼(ふんけいひよく)の肩組みて」「幾度臥薪(いくたびがしん)の夢に泣き」「干将莫邪(かんしょうばくや)の利剣あり」こんな難しい歌詞の学級応援歌というのがあって、それは先生がクラスのために作ってくれたんだけど、それを度々唄わされた。最初は何の意味か解らなかったが、でも卒業間際には暗記してしまった。後年、「そういうことであったか」と先生の深いお考えに頭を垂れるのだった。今、ちょっと目じりが熱くなった。
 Y先生は小学校の卒業式にクラス全員に手づくりの文集を手渡してくれた。全部、先生が家に帰られてからガリ版を切られたものである。全部で98ページである。その中に前述の漢詩風の学級応援歌もあり、先生が中学へ進む子供たちに託したい想いが込められている。
「年々歳々花相似、歳々年々人不同」
 って小学生が理解できますか(今、泣いています)。
ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず」
 子供たちに理解しやすいように、脇に解説が添えてあるけれど。こんな言葉が小学校6年生に向けて、あちこちに散りばめられている。いつの日にか子供たちにこの言葉が届きますようにって、ガリガリと鉄筆を走らせておられたんだろう。
 いけない!何十年ぶりかの「編集後記」が目に沁みる。
《文集の編集を思い立ったのは、六年の二学期が始まって間もないころのことでした。二年間もいっしょにやってきた学級のみなさんに、何か残してあげたい、残してあげなければ気がすまない、そんな、単純な気持から思い立ったことです。余暇をみつけて少しずつ原紙を書いていけば、卒業までには相当の分量になるだろうぐらいの簡単な考えでした。ところがだんだん日がたつにつれて、なかなか容易ではないことに気がつきました。あれも入れたいこれも入れたいと思いながら、ついこんなまとまりのないものになってしまいました。不細工の点はあしからず。気持だけをお届けします。ご健康とご多幸を祈ります。(三月尽日)》
 後記の次のページに先生の署名入りのメッセージがある。
《昭和四十六年三月、〇〇小学校卒業の桃組は、私の一生のうちでも最も印象の深い学級になるでしょう。私のよろこびも、かなしみも、たのしみも、くるしみも、おどろきも、さみしさも、あこがれも、みんなその中にあったからです。》
 ワシャは出来が悪かったからなぁ。先生のメッセージを受け取るのに、半世紀近い歳月がかかってしまった。年々歳々、人はなかなか成長しない(自嘲・泣)。