備蓄食料の「公」と「私」

 夕べ宴席が2つ。厳密にいうと一つは読書会後の食事会なので、1.5といったところか。最初の宴は、社の歓迎会だった。料理に箸をつけることなく、ひたすら注いで回った。1時間半それに徹したが、全員と話すことはなかなかできない。すでに幹事には告げてあったので、途中でドロンさせてもらった。
 宴会場から駅まで走って、ちょうど入ってきた快速に飛び乗る。そして読書会をやっている駅で降りて、会議室に急ぐ。およよ、会議室の告知ボードに「読書会」が見当たらない。仕方がないので、幹事のパセリくんに電話をすると「駅北側の公共施設の会議室ではなく南側のセンターの会議室ね」と言われた。間違えた。あわてて駅までもどるが、もう南の施設にまでいく気力がなかった。読書会を終えて駅まで戻ってきたメンバーと合流し、居酒屋へとしけ込んだのである。

 そこでおもしろい議論が展開した。「公」と「私」についてである。取っ掛かりは、平城京南都六宗の大寺がみな「官立」というところからだった。これら寺院の政治的影響力が大きくなってきたので、桓武天皇が逃げるようにして平安京に遷都したことはあまりにも有名ですよね。寺院の影響を恐れた桓武は、京都には官立寺をいっさい許さなかった。天台宗延暦寺真言宗金剛峰寺も遠く山中に開いた。
 ちょっとまて、平安京には「東寺」「西寺」が造営されたはずだが、これは言っていることに矛盾があるのではないか。残念ながら当時の東寺は、後世の字義である仏教寺院ではなかった。「役所・官舎」を現す「寺」で「東官舎」「西官舎」というようなことであり、宗教施設ではなく宿泊施設に近かった。
 このあたりの話をし始めると長くなるので、またの機会に譲るけれど、そんなことから「公」と「私」の話が始まった。

 地震の際の「公」の備蓄についてである。ここでいう「公」とは公共・行政・自治体と読み替えてもいい。「公」が食料や災害時に使う備品を蓄えておくことは静岡、愛知あたりでは常識になっている。メンバーの一人が「備蓄に関しては財政力がものを言う。東海地方でも財政が潤沢になければ災害用の備蓄はなかなかできない」と言った。
 たしかにそれは一理ある。しかし、実は違う。水の確保で考えたい。阪神淡路大震災の後、水道管の途中に大きな水のタンクを設置し、災害時の飲料水を確保しようという動きがあった。幾つもの自治体でそれこそ灰神楽を立てるような騒ぎでそのタンクを設置をしたものである。1セット何千万しただろうか。これで40トンの水が蓄えられるそうだ。しかし、高い水である。ところが東海地方のある町の防災担当者は考えた。
「こんな高いものではなくてもっと安く水を入手できないものだろうか?」
 そして辿り着いたのが、小中学校など施設に設置してある受水槽に蛇口をつければ、中の水は災害時に自由に取り出せ飲用に使えるということだった。蛇口の設置費は5万円くらいだったかなぁ。それで一カ所40トンの水が確保できた。
 話が逸れたが、これが公的備蓄ということで、これは住民の命を守るための備蓄で、これに何千万円かけようと5万円かけようと、自治体の考え方なのでどちらでもよろしい。なにを言いたいかというと、財政の力がなくとも知恵を出せば、同様の備蓄はできるということを取りあえず言いたかった。
 さて、本題。そのメンバーは「災害対応にあたる公務員の食料をどう確保するか?」と疑問を呈した。「そこはそれぞれで準備をしておくべきではないか」とはワシャの意見。「その個別備蓄に対して1割2割の補助はやむをえないのでは」という見解が3人。「いや私的に口にするものであるならそれは全額自分で持つべきである」というのがワシャの主張だった。
 災害が起きる。被災者が多くが公的施設に避難してくる。そこに食料、飲料水などをありったけ提供するのは行政として当たり前だろう。それも老人や子供がいればなおさら、公務員は食料に手をつけず分け与えることが「公」ということになろう。
 ボランティアのことを考えていただきたい。中越地震能登地震あたりから常識になってきたが、ボランティアは被災地での便宜供与をいっさい当てにしてはいけない。食料・水はもとより宿泊場所・医薬品に至るまで自己完結できることが必須で、それができないのならボランティアにやってくるな、という話である。
 これが公務員にも拡大されると思う。充分な食糧・水があれば、公務員だってそれを食べながら災害対応に走り回る。しかし、それが足りなくなった時に、老人、子供などを差し置いてそれらを口にすることはできないだろう。しかし、災害に対峙していくために己の体力は必要だ。だから、ワシャは「私的」に食料・水を蓄えておけと言っている。机の引き出しに50円の羊羹を何本か入れておく。ロッカーにペットボトルの水を2〜3本、保存のきくビスケットなどを置いておく。鞄の中にチョコレートや飴をしのばせておく。これらは随時口にして常に新しいものを補充回転させておく。これは自腹である。だから災害時に、申し訳ないけれどもちょっとエネルギー補給をさせてもらって、その分、災害対応にあたるというものである。しかし、それすら飢えている子供があれば、譲ってしまうのが日本人の良さなのだろうけれど。
 なにを言いたいのかというと、要するに僅かでも公費が入れば、それは「公」のものである。それを「私的」に使うことがワシャにはできない。「私」のものであるなら、堂々とは言わないけれど、遠慮しながら食べることができる。
 ワシャが机まわりに持っている食料・水の合計金額が1050円である。これで満足ではないが、3日はなんとか活動ができる。その1050円に1割の公費を入れ込んでもらってもねぇ。
「あんたは自分がやっていることに酔ってモノを言っている」
 と言われた。確かに二次会なので酔ってはいる。けれど、災害時の大混乱の現場を想像すれば、少しでも公費の投入されているものを被災者より優先して口に入れるというのはかなり苦しい。そのことを考えて発言したつもりだったが、ずいぶん酔っていましたね(笑)。
《こんにち「公」という概念が、宙空にあって輝いている。その色は清らかでその性質は無私で、ひたすらにひとびとの役に立つという存在である。》
 とは司馬遼太郎さんの言葉である。ワシャはかくありたいと念じつつも、なかなかその領域に達しないのが悲しい。