小泉八雲

 朝からかなり強い雨が降っている。台風11号の影響が出始めた。昨日、一昨日は貴重な晴れだったわけだ。

 昨日の夜、NHKの番組で「100分で名著・小泉八雲」が放送されていた。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/45_omokage/index.html#box03
去年、松江に行った記憶が、まだ新しいのでついつい見入ってしまったのじゃ。今回の本は『日本の面影』で、ワシャは(角川ソフィア文庫)を持っている。
 テーマは「異文化の声に耳をすます」であり、目が悪かった八雲は耳から日本を理解することにつとめたし、事実、そういう音の記述が多い。
 番組で取り上げたのは、あまりにも有名な、松江の第一日目を記録した「神々の首都」の書き出してあった。
《松江の一日は、寝ている私の耳の下から、ゆっくりと大きく脈打つ脈拍のように、ズシンズシンと響いてくる大きな振動で始まる。柔らかく、鈍い、何かを打ちつけるような大きな響きだ。》
 八雲は五感のうちの、耳から文章を始めている。その後、身全体で振動を感じている。視覚が加わるのはかなり後の方だ。
 解説の、早稲田大学の池田教授は「他の欧米人は目で見たもので日本を理解しようとしたが、八雲は耳から聴いたもので日本を理解しようとした」と言う。
「見るという行為は主観的、能動的な行動だが、聴くということは受動的で客観的に理解を促進するのではないか」というようなことも発言していた。30分足らずの短い番組だったが、おもしろかったなぁ。
 
 そういえば、司馬遼太郎も八雲を高く評価していた。記述は少ないが、例えば『愛蘭土紀行』のなかでは「わが小泉八雲」と言っているし、江戸期に飛騨に育まれた金森文化に触れ「たれか、金森氏数代と幕領時代が残した飛騨美学というものを、単なる分権主義をこえる感受性をもって研究してくれる天才的な人が出てくれないものだろうか。明治期の松江を小泉八雲が書いたようにである」と称えている。

 久しぶりに小泉八雲を読み直してみるか。

 八雲に入る前に、地元の読書会の課題図書から引っ張られて、何冊かの落語家の本を再読している。
 名古屋の落語スターの三遊亭円丈『落語家の通信簿』(祥伝社新書)にいいフレーズがあったので記録しておく。
《確かに談志師は、芸の天才、記憶の天才だったかもしれない。しかし、圓生師は「芸は砂の山」と言った。芸とは、いつもサラサラと崩れる砂の山なのだ。どんなに天才でも、稽古をしないで怠けていれば、ズルズルと崩れ落ちてしまう。「芸は砂の山」に例外はない。》
 これは「芸」ばかりではなく、なにごとにおいても、反復の練習を怠れば砂山は崩れるのみで、事は成らないということである。継続は力なり、好きこそものの上手なれ。耳が痛い。