一年の計は正月三日にあり(笑)

 今年は道元の『正法眼蔵』を読み直そう。しっかりと身に着くといいが、まだまだ小僧のワルシャワでは難しいだろうね。
 鈴木大拙は1月の課題図書にもなっているので『日本的霊性』も含めて通年で読み込んでいきたい。そうそう昨日深夜に「100分de日本人論」
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2015special/index.html
という番組がやっていた。松岡正剛斎藤環中沢新一赤坂真理がそれぞれ図書を推薦し日本についてその薀蓄を語った。宗教学者の中沢が推薦したのが『日本的霊性』だった。その中で鈴木大拙の貴重な映像も流されて「日本人にとって宗教とは?」というようなことを話していた。「こいつぁ春から御縁があるわぇ」と思った次第である。
 そもそもワシャが本に溺れているのも、「日本人とは何か?」ということを知りたいがためと言っていい。
 昨日、流れた映像の中で鈴木大拙が言っていることをすこし書き出してみた。「宗教とはなにか?」という疑問についてはこう言っている。
 近頃の人は無限に対する憧憬(どうけい)というか憧憬(しょうけい)が足りない。とにかく無限への関心が薄くなってきている。それが近代人の弊だろうと思います。その定義を宗教のほうに持ってきて、我々は無限の社会で苦しいと言っている。自由にならないとか苦しいというところになにか限られたものを感じていて、限られたものを感じるということが正しい無限を感じるということです。そうでもなければ、有限というものが苦しいと感じることもなければ不満足と感じる理屈もない。有限というものの中にいて、不満足だという感情を起こすのは、すなわちその裏に無限があるからです。その無限に対する関心が近代人は欠けている。この関心を持つのが宗教であると、この説明が一番わかりやすいのではないかと思うのですな。
 
 その答えに対して「無限への憧れとは?」とアナウンサーが切り返す。

 未来というものも、過去というものも、現在というものもない。ただあるものは、ふっとこう言うと過ぎ去ってしまう。つまりインスタントですね。即今といいますか、ただ、今ですね。それだけが事実、本当ですね。それを人間の智恵で色々と分析をして時間というものを立てて、一分とか二分とか一分の何万分の一とか何億分の一とかいって、そこに未来とか過去というものをこしらえるんだけれど、本当の無限の中に入れば全てそういうものはなくなる。そうすると現在を生きると、キリスト教のキリストの言葉に「明日のことを心配するな。今日は今日でもう足りる」と、あれはいい言葉ですね。
 そういやあ江戸っ子の「宵越しの金は持たない」というのばかりになっちゃぁ、経済は成り立たん。経済を成り立たせる裏には、今日かぎり、これかぎり、今かぎりという自覚というか直覚というんですかね、なにかそういうものがあるところに本当の宗教的な安心があります。

「わかったようなわからないような……」とアナウンサーが困ると、

 頭で考えていてはいけない。そのことを仏教の言葉でいえば分別視といいます。分別視、科学でいえば分析ということになるが、そうではなくて弊はあるかもしれないが、死中、夢中、一まとめにして丸呑みするということができれば、仏教的になりますけれど、そこに本当の安心ができます。その上に立って今日があるとか明日があるとか大きいとか小さいとか、死ぬとか生きるとか、困ったとか困らないとかそういうことがあると、こう私は決めています。

 ワシャにもわかったようなわからないような……しかし、一年をかけて鈴木大拙の言葉が「死中、夢中、一まとめに呑みこめる」ようになるために努力をするのじゃ。