芝浜の怪事件

 愛宕下の裏長屋に住む魚屋の熊五郎、暗いうちからかみさんに叩き起こされ、しぶしぶ芝浜の魚河岸に向かっていた。
「ううう、くそっ、滅法寒いじゃぁねえか。師走も押し迫っているから仕方ねえが、すっかり目が覚めちまった。しかし、魚屋なんてつまらねえ商売だなぁ。みんないい気持ちで寝てるっていうのに、こうやって天びん担いでいかなきゃなんねえんだから」
 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら魚河岸に着いてみれば、問屋はみんな閉まっている。
「どうしたって言うんだ、あれっ、鐘が鳴っていやがる。あっ、かかあのやつ、時刻を間違えて起こしやがったんだな。まいったなぁ、今から長屋へもどるもならず……浜へ出てつらでも洗うとするか」
 熊五郎は、暗いけれども勝手知った浜のこと、波打ち際に向かうのに迷うものでもない。闇の中を砂を踏んで進んでいけば、途中で「ドン」と何かに突き当たり、逆蜻蛉にひっくり返った。目を凝らしてみれば、浜にいやにのっぺりとした塗塀が突っ建っているではないか。
「こんちくしょーめ、たんこぶができちまった。誰でぇ、こんなところに塀なんぞこしらえやがって」
 目が慣れてくると熊五郎、塗塀の基のほうに黒い塊があるのに気がついた。
「なんだい」
 と恐る恐る近づいてみれば、塗塀に人が踏みつけられている。足元に提灯が落ちていたので、拾い上げて火を入れた。灯りをかざせば、
「ありゃま、伊勢屋のご隠居じゃねえか」
 面に掌を近づけるが息はない。
「先だって、鰻屋の赤ん坊を土左衛門にしたばっかりだっていうのに、今度は自分がおっ死んじまっちゃ世話ぁねえや。おっと、こうしちゃいられねえ」
 熊五郎は天びんをうち捨てて、あわてて来た道を駆け戻っていった。

 熊五郎が駆けこんだのは浜松町でお上の御用を務める銭亀平次の仕舞屋だった。熊五郎、魚屋のかたわら平次の下っ引きとしても働いている。
「てえへんだ、てえへんだ」
 夜も明けないうちから、近所迷惑な熊五郎の大声に、雨戸を開けて平次の内儀のお静が顔を出した。
「朝っぱらからなんだい、もう少し静かに出来ないのかい」
 平次も寝ぼけまなこで顔を出す。
「熊公、なにを騒いでいやあがるんだ」
「親分、じつは芝の浜に塀ができたんですよ」
「へえぇ」
「昨日はなかったんですが、一日経ったら出来てたんでさ。誰がこしらえたんでしょうね」
「そりゃ大工にきまってらぁな」
「そんなことを言っている場合じゃないんですよ」
「はっきり言ってみねえな」
「その塀の下敷きになって後生鰻のご隠居が死んだんでさぁ」
「そいつは大事だ。おい、お静、出かけるぜ」
「あいよ」

 平次が一人芝浜に着いた頃には、東の空が白みはじめていた。靄がかかってはいるが、浜の様子もぼんやりとだが見えるようになってきた。どうやら浜の真ん中あたりにある矩形の小屋を、熊五郎は塀と見間違ったのだろう。大きさは平次の家くらいはありそうな長方形のツルンとした小屋……というより大きな茶色の箱と言ったほうがいいだろう。
 平次はその小屋の脇で思案に暮れた。
「間口四間、奥行き三間、立ち上りが七尺。材は、こりゃぁ革だな。革で出来ている小屋だから、革屋……あっ、厠(かわや)か?しかしどこにも入る口はねえ、これじゃあ用足しのときにへえられねえじゃないか」
 そのうちに隠居の家に回らせた熊五郎が戻ってきた。
「親分、ご隠居は夕べ夜釣りに出たそうですぜ」
「そうかい、だんだんわかってきたぜ。隠居が夜釣りに出る。夕べは風が強かった。その風でどっかからこの厠が飛ばされてきて、隠居の上に落っこちた。で、隠居は御陀仏となっちまったという筋書きよ」
「なるほど、さすが親分だ」
「あとはこの四角張った厠の正体が分かれば一件落着ということだな。熊五郎、手を貸しねぇ、この厠の屋根に上るんだ」
「がってんだ」
 平次と熊五郎がツルツルの壁に苦労しながらようやく厠の屋根に上ると、目の前に暁の江戸湾が広がる。
「絶景かな絶景かな、安房の眺めは価千金……」
「親分、五右衛門を気取っている場合じゃありませんよ」
「まあ、そう言うねぇ。お天道様も顔を出したんだ。ちょいと一服しようじゃねえかい」
 そう言うと、おもむろにキセルを出し手際よく火を点け気持ちよさそうに煙草を燻らす平次だった。
「のんきなもんだ。親分が煙草を飲む時はなんにも思いつかねえときなんだよ」
 熊五郎は手持ち無沙汰になり、仕方なしに海側の屋根の縁に腰を下ろした。そしてふと足下を見下ろすと、あっと驚く熊五郎、小屋の裏面に五尺ほどの大きな取っ手がついており、それを牛ほどもあろうかという毛むくじゃらの巨大な拳が握っている。その拳から、腕が伸び、その先の浜に目を凝らせば、朝靄の中に小山ほどはあろうかという大きな南蛮人が仰向けに横たわっているではないか。
「親分!て、て、て、てえへんだ」
「どうした、熊五郎
「あれを見ておくんなさい」
 熊五郎の指差す方向を見て、さすがの平次も肝をつぶした。
「なんだ、あの大男は……」
 駆け寄ってきた平次、あわてて咥えていたキセルを落っことした。そのはずみに火種がポンと飛び出して、毛むくじゃらの手の甲に「じゅう」とくっついたからたまらない。
「Ouch―――!」
 江戸前の海から木更津まで大音声が響き渡った。その上、浜に寝そべっていた大男が厠の取っ手を掴んだまま飛び起きたからたまらない。厠の屋根に上っていた二人は振り落とされ、浜の砂に叩きつけられた。平次が厠と思ったのは大男の鞄だった。

 イギリスの書「ガリヴァ旅行記」に《ガリヴァ、ラグナグを去り、日本に航す。江戸で皇帝に拝謁を許され親書を手渡した。》とある。
 なにせ巨大なガリヴァのこと、江戸城では拝謁がかなわず浜御殿での謁見となった。将軍も巨大なガリヴァがお気に召し、江戸じゅうの酒を集めての大歓待だ。あまりの歓迎ぶりにガリヴァはついつい酒を過ごす。夜も更けてすっかり出来上がったガリヴァは品川沖の船に戻るため、親書を入れてきた鞄を手に千鳥足で浜御殿を出た。芝浜まで来たところで鹿島明神の鳥居に足を取られて転倒し、そのまま浜で酔いつぶれてしまった。その時、脇に置いた鞄の下敷きになったのが不運なご隠居だった、というわけである。
 このことは「ガリヴァ旅行記」にも詳しくは記されていない。過失とはいえ人が一人亡くなったのである。作者のスウィフトもそのあたりを憚った。幕府もこの事件を表沙汰にすることはなかった。鎖国政策の最中の出来事であり四民への影響を慮ったのであろう。唯一、銭亀平次の捕物控の中にこの事件の顛末が書き残されたのみで、その他の史書は、何も語らず沈黙を守っている。事件は歴史の闇のなかに、酒を呑んだわけでもないのだが夢のように消えてしまった(笑)。

            ―了―

 師走晦日のおまけということで。おめーわけ(お迷惑)でしたか(苦しい)。