荒子城

 名古屋駅からあおなみ線を使って3つばかりゆくと「荒子」という駅がある。荒子と言われてもピンときませんよね。でもね、歴史好き、戦国時代好きだとピーンとくるんですな。
 戦国時代も後半戦に差し掛かっている。地区予選を勝ち抜いていくつもの戦国大名が名乗りを挙げつつある天文永禄期、尾張荒子村の土豪の息子として前田利家は誕生する。
 その生誕の地、荒子城跡へ、過日、ふらりと立ち寄った。残念ながら現在は「社」になっていて城跡としてはあとかたもない。小さな「富士権現天満宮」という平地のお社になっている。しかし『日本城郭大系』(新人物往来社)によれば、往時は東西68m、南北50m、一重堀、総面積12000㎡、敷地高も現在よりも2mほど高く、名古屋西部を治める城郭としての機能を有していたと思われる。
 ワシャの書庫にある本をいろいろ調べてみると(早朝からごそごそやっているんですよ)、城跡が天満宮になっているのも偶然ではないことが解った。利家の生誕の日が菅原道真の忌日になっている。それに後になって前田家が、道真の後胤と称していることからも、城跡が天満宮である理由がつく。もうひとつおまけに、前田家の家紋は梅鉢紋であることも付け加えておきたい。

 さて、ここまでの話は前ふりである。じつは荒子城址に行って、その一角にある小さな碑を見つけた。「前田利家卿誕生地碑」である。そこに碑記が彫ってあり、その内容はどうでもいいのだけれど、その碑を建てたのが山崎延吉という人で、その名が碑文の末尾にあったのだ。
 実は山崎延吉という人、西三河の農業に多大なる貢献をした人で、現在の西三河の農業が振興しているのも彼の功績と言っていい人である。もっと具体的に言えば、日本が富国強兵に尽力している時代に、碧海郡という田舎にできた農林学校の初代校長に就任し、地域の農民を撫育し、一大農業地をつくった人物だ。そういった意味からも地域の偉人であることは間違いない。
 その人の名が、名古屋の住宅地の中にあるほんの小さな社の中にあったのである。ちょいと驚きましたぞ。
 でもね、それにも理由がある。山崎延吉、元は金沢の人である。金沢といえば、加賀百万石の首邑であり、前田利家がつくった町といっても過言ではない。そこから出てきた延吉が……もっと具体的に言えば、父親が加賀藩士だったので、加賀百万石の礎を築いた利家の生誕地を記念するのは当然と言えば当然であろう。
 たまたまふらりと立ち寄った城址(じょうし)とも呼べぬほどの城跡(しろあと)で楽しい痕跡を見つけたので記しておく。

 山崎延吉と碑についても書庫で探し求めたけれど、「前田利家卿誕生地碑」の建立についてはその手がかりがつかめなかった。残念。