読書の違和感

 ワシャは本を併読する。よほどおもしろい読み物については、一冊を集中して読むこともあるが、常には何冊かを並行して読んでいる。家の中でも本を抱えながら移動しているんですよ。もっぱら家の中ではスーパーのカゴ(もちろん買ったもの)を利用している。今日はそのカゴに9冊入っていた。どうでもいいと思うけれど、その本を紹介しますね。
福田恒存『保守とは何か』(文春学藝ライブラリー)
 これは10月に開催する読書会の課題図書である。これがなかなか歯ごたえがあって、読書会の日に向けて少しずつ咀嚼していくために持ち歩いている。
○『佐藤榮作日記』第5巻(朝日新聞社
 この間からこの日記にはまっています。
○堀越作治『戦後政治裏面史』(岩波書店
 この本には次のような副題がついている。――「佐藤榮作日記」が語るもの――ということで、まさに前述の本の副読本。
山田雄司『跋扈する怨霊』(吉川弘文館
竹田恒泰『怨霊になった天皇』(小学館
 このところ怨霊とか幽霊に凝ってしまって(笑)。おそらく「おとろし」に遭った後遺症だと思う。この関連で平安時代を大雑把に再認識したくて、以下の本もカゴに入っている。
北村優季平安京の災害史』(吉川弘文館
平泉澄『物語日本史(中)』(講談社学術文庫
 そしてこの間、ブックオフで買ってきた
西部邁『死生論』(日本文芸社
北野武『余生』(ロッキング・オン
 今はこんな感じなのだが、これが日々、入れ代わり立ち代わりしていく。時にはコミックや児童書が入っていたりする。疲れた時なんかは、ここに司馬遼太郎池波正太郎が加わってくるんですな。

 でね、夕べ、ちょいとおもしろい現象が起きた。ワシャの親の家が隣にあるのだけれど、そこにマッサージ機が置いてある。だからたまに時間のあるときには1時間くらい使わせてもらう。その時間、退屈なので例のカゴをもちこんで本を読んでいる。
 昨日はたまたまその部屋に両親がいて、なにやら真剣に喋っていた。そんなことは委細構わず、カゴの中から本を一冊取り出す。日中ちょいと頭を使っていたので、難しいのはやめて読みやすいのにしようと、北野武の『余生』を手に取った。この本の第一章が「死を語る」というもので、すでに風呂で数ページを読みはじめ、途中になったので付箋を本の肩に打っておいた。そこから読みはじめる。
 親のどうでもいい会話は続いている。ワシャは電気マッサージに痺れながら本に没頭するのだが……それがどうもおかしいのだ。文章が頭の中に入ってこない。確かに父と母のどうでもいい話は耳障りだが、それでもそんなことで読書が妨害されるほどやわではないつもりだった。しかし、2行3行と読み進めても北野武の言葉が脳に定着していかないんですね。建設現場でだって読書をした自負がある。どこか調子が悪いのかなぁ。
「ちょっと静かにしてよ」
 と言ってしまった。マッサージ機を借りにきたほうが偉そうに言ってはいけないのだが、ワシャはマッサージ機から動けない。「至仁は親しむこと無し」孝行息子は丁重に「Less noise please」とお願いしんですよ。
 父母は息子のごたくに耳を貸したわけでもなかろうが、キッチンのほうに行ってしまった。ようやくマッサージ機のある部屋は静かになった。虫のすだきも心地いい。ブーンというマッサージ機の音が眠気を誘う。しかし、ワシャはここで毅然と本のページを開くのだった。
 でも、やっぱり読めないんですよ。北野武の言葉が脳裏で広がらない……。
 そこではたと気がついた。表紙を確認すると、同じ白い本だったが北野武の『余生』ではなかった。西部邁の『死生論』のほうのページを繰っていた。どちらも「死」を扱った本で、双方とも風呂で冒頭の数ページを読みはじめ、同じ付箋を同じ肩のところに目印で打っておいたものである。西部を北野だと思って読んでいたんですな。
 おもしろい。
 読む側に、どの本を読むんだという認識がないと、あるいはどのレベルのものを読むという心の準備がないと、その対象がとても読み辛いということを思い知らされた。そして「これは西部邁の本である」と解った途端、文章はスラスラと脳内に入ってくるのだった。北野の書いたものと思っていたので、言い回しや表現の仕方がしっくりこず、ささやかな脳味噌が悩んでしまったんでしょうね。
 とにかく原因がわかったのでめでたしめでたし。