私にしか書けない?

 作家の岩下尚史氏が、『新潮45』の5月号に――私にしか書けない「歌舞伎座への誘い」――という文章を寄せている。少し引っかかる文章だったので取り上げたい。
 まず、岩下氏、勘三郎團十郎の急逝の報に接したテレビのコメンテーターたちが「ほかにまるで役者が居ないかのような口ぶりで嘆いていた」ことを問題にしている。それに重ねて、富十郎芝翫雀右衛門を失ったことについては、特段、心配しなくていいし、大きく騒ぎ立てるな、とも言う。
 その理由の第一として、勘三郎團十郎の穴を埋める俳優たちが、歌舞伎座の建て替えの間も地道に芸を練っていたことを挙げている。
 第二に、歌六時蔵芝雀又五郎などが、名優たちから伝習的な技芸を授けられているので「安心していい」と言う。
 第三に、上方歌舞伎の大御所である坂田藤十郎が健在だから、後進が教えを請うのにこれほど有難いことはないのだそうな。
 この3点から、現在の歌舞伎は危機的な状況にあるわけではないと主張している。そうかなぁ。
 まず、第一の精進の話は、勘三郎團十郎の急逝があろうとなかろうと、そもそも歌舞伎役者は日々精進をしていかなければならないのである。そのことを取り上げて「だから心配ないんだ」と言われても、そう簡単には納得できない。
 第二、歌六時蔵芝雀又五郎などは、名優たちから伝習的な技芸を授けられてきたのだろう。しかし、4人とも、まだまだ芸が完成しているわけではないし、今後も先輩たちに指導を仰いで精進していかなければならない。つまり、富十郎たち大御所の存在があれば、さらに芸道に磨きをかけられた。
 第三、上方歌舞伎の筆頭である坂田藤十郎が健在なことはありがたい。しかし、富十郎團十郎などが培ってきた江戸歌舞伎の芸が藤十郎に教えられるのか、というとそんなわけはないだろう。
 この人、これらを根拠にして、テレビで歌舞伎の明日を心配するコメンテーターに「なんにも知らないくせに偉そうなことを言うな」と暗に言っている。そして、コメンテーターたちの言説に乗っかって、右往左往する歌舞伎ファンを見下している。
 その証拠がここだ。
「もし、歌舞伎に危機的な要素があると云うのならば、それは興行主や俳優の側にではなく、昨今の看客の側にあるのではないでしょうか」
 この人、「観客」と書かず「看客」を使う。「看客」は「かんかく」と読む。意味は「見る人、見物人、観客、読者」。別段、「観客」と書けばいいのだが、こだわりがあるのでしょうね。
「観客は、映画とか演劇を観る人のことを云う歌舞伎の場合は、看客だ」
 はいはい。「看」には、まさに字のごとく「手をかざして見る」という意味がある。まぶしくありがたいものを見るということなのだろう。岩下氏も、歌舞伎をそう捉えていることが、字の使い方からも見えてくるのでおもしろい。
 氏は言う。
「興行師や役者に歓迎される看客と云うものは、自分が惚れた役者のためには、その出勤中の劇場を貸し切るか、そこまでいかなくとも出来るだけ多くの札を引き受けると云うのが、なによりの条件であることは申すまでもありません」
 役者に楽屋見舞いを届けろ。弟子や番頭に祝儀を出せ。幕が下りたのちは、料理屋などで馴染みの芸者に取り巻かせて、遠慮無用に遊ばせろ。普段から、役者の冠婚葬祭の音物(いんぶつ)にも心配をしろ。
それが氏のいう歓迎される看客であるらしい。氏は、こんな風に歌舞伎を楽しんでいる5〜6人の看客の顔が浮かぶそうだ。ううむ、そりゃぁ結構だが、その数人だけで歌舞伎座を借り切って、たとえ興行を打ったとしても、その数人も楽しくないし、役者だって張り合いがなかろう。
 そのことは岩下氏もわかっているらしく、この後ろで「手軽な芝居見物」についてレクチャーしてくれている。ありがた山のホトトギスですわ(笑)。
「何と言っても、見物しやすい席を取らなければ、歌舞伎の好さはわかりません」
 ここで氏の言う席とは、舞台正面の一等席の中央、それも一桁列の席ということになる。そういういい席は電話予約では運まかせになるから、役者の後援会に入って番頭に付け届けをすることで、いい席を確保しろと忠告してくれている。ケッキョケッキョ。
「本誌(『新潮45』)を手に取られるほどの紳士諸兄にあっては、学校を出ると同時に芝居の三階席は卒業したほうが無事でしょう」
「大のおとなが三階席から身を乗り出したりしては、いかにも歌舞伎に偏する変物まるだしで、それでは紳士の人体にも係ると云うものです」
 言わせてもらえば、三階席の観客の中にも背中を背板につけて歌舞伎鑑賞をしている方々は多い。
 岩下氏の一般観客への理不尽な口撃を記す。
「昨今のリピーターとやらの好劇家をみて感じることは、むかしの役者ぐるいの芸者ではあるまいし、毎月の替り目ごとに値の高い大歌舞伎の見物をして、分不相応な道楽もすることはあるまい」
「連れもなしに独りで見物するような、見るからに熱心な鑑賞者が、廊下の椅子に陣取って、コンビニから持ち込みのパンや弁当を頬張るのをみかけることが増えましたが、それで大歌舞伎の味がわかるものかしらと不思議な気が致します」
「薄茶ひとつも点てられない、自分で帯も結べないような人に、歌舞伎を真にとらえることができるでしょうか」
「世間の好劇家の中には、ながいあいだ、見続けていることを自慢するひともあるらしいが、それは他人に喋々するようなことではないとも思うのです」
 そうだろうか。
 毎月の替り目ごとに値の高い大歌舞伎の見物をしてくれるお客さん、贅沢な食事はとれないけれど、足を運んでくれる人、薄茶も飲まず、和服も着られないけれど、勘三郎は好きだというファン、そういった人たちが束になって歌舞伎を支えていると思うのだが、違うのかなぁ。

 ざっと岩下氏の文章を読むと、興行主である松竹株式会社、歌舞伎俳優、そして金持ちの谷町に媚びているだけのような気がする。本人は「歌舞伎にのめりこむことで身を持ち崩した」と言っているが、行間を読めば、そんなこと露ほども思っていないことはまる見えだ。とりあえず利害関係のない普通の歌舞伎ファンの「意識が低いこと」を責めていれば、子供の頃から歌舞伎に足しげく通い、長じて新橋演舞場に勤務し社史を編纂した文化人という「輝かしい」経歴には傷がつかないからね。
 来月号にもこの人の歌舞伎に関する文章が載るようだから楽しみにしておこうっと(笑)。