「ありゃま」という感じ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130221-00000131-san-soci
あの「かんだやぶそば」が焼けたのか。ずいぶん昔に神保町で古本あさりをしていて、昼に立ち寄ったことを思い出した。
新聞では「池波正太郎が愛した老舗」と言っているが、確かに「かんだやぶそば」にも池波さんは行っているが、どちらかというと明治座に近い浜町藪蕎麦に足しげく通っていたのではないか。そして神田というと「まつや」だろう。池波さんの『むかしの味』(新潮文庫)でも、「〔まつや〕の蕎麦」と題してエッセイを書いている。
この「神田まつや」を含め東京蕎麦の横綱というと、同じ藪でも「並木藪蕎麦」とか、砂場系では「室町砂場」などの名前が出てくる。蕎麦通で知られた江戸風俗研究家の杉浦日向子さんの著書『ソバ屋で憩う』(新潮文庫)でも、上記の3店は出てくるが、残念ながら「かんだやぶそば」は出てこない。もちろんそれでも十分に三役格の蕎麦屋で、そんじょそこいらの蕎麦屋の追随を許さないことは間違いない。細切りの麺を、昆布と鰹節のきいた辛口のつゆに、半分ほどつけてツルツルッと飲む。これは格別だった。
蕎麦といえば、亡くなられた團十郎丈の蕎麦喰いが巧かった。あれは歌舞伎座だったと思う。演目は「天衣紛上野初花(てんにまごううえののはつはな)」、六幕目の「入谷村蕎麦屋の場」である。主人公の直次郎を團十郎が演じる。ここで蕎麦を喰いながら燗酒を呑む。これが粋なのである。それを見てからワシャの蕎麦の喰い方が変わった。つねに團十郎を意識して食べていると言ってもいい。
さて、「藪蕎麦」はなぜ藪蕎麦というのか。これは通の人なら知っていると思うけれど、知らない人もいるかもしれないので、ちょいと話しておきやしょう。
そもそも、「並木藪蕎麦」「上野藪そば」「浜町藪そば」は「かんだやぶそば」から暖簾を分けた。その「かんだやぶそば」の前身が「蔦屋」という蕎麦屋である。この「蔦屋」が江戸期から千駄木の団子坂で営業をしていたわけだ。
でね、この団子坂界隈、とても竹藪の多い土地柄で、この蔦屋も竹藪に囲まれるようにして建っていた。だから江戸っ子たちは「蔦屋に行こうぜ」とは言わずに「藪蕎麦を喰いに行こうぜ」と言ったのだそうな。それが定着して「藪蕎麦」となった。
いかんいかん、蕎麦の話をしていたら、本当に蕎麦が喰いたくなってしまいましたぞ。といってワシャの住む地域に美味い蕎麦屋はない。JRで名古屋まで出て「紗羅餐(さらざん)」か、車で刈谷の「天手古舞(てんてこまい)」。あるいは根羽村の「じねん亭」のじゅねんじょ蕎麦でもいい。ああ、ツルツルッといきたいものですなぁ。