石橋山の戦い

 友だちから、家族で湯河原温泉に行った話を聞く。ううむ、うらやまし。
今のワシャの仕事は7月から10月までが繁忙期で、この時期になかなか休みが取れない。土日でも、どこかの時間帯に2時間ばかりの仕事が入る。そうなることが多く、だから、遠出は難しい。東京も日帰りすることが多いのは、そういったわけなのである。

『吾妻鑑』の治承四年八月二十五日の記載にこうある。
「大庭三郎景親、武衞の前途を塞がんが為、軍兵を分かちて方々の衢を關固む」
 大庭三郎景親、これは平家方の侍大将。平家政権における東国の重要人物である。この景親が、武衞、つまり頼朝の転進を阻止するために、軍兵を分けて、あちらこちらの街道に関を設けて警戒にあたった、と書いてある。
 遡ること2日、いやいやもう少し戻ろうか。
 八月十七日である。源頼朝は伊豆韮山にある平家方の目代(代官)山木兼隆を襲撃する。『吾妻鑑』では、「これ源家、平家を征するの最前(さいさき)の一箭(いっせん)なり」と寿いでいる。
 二十日、300騎で相模土肥(湯河原)に進出し、源家の主力部隊である三浦一党を待つのだが、これがなかなか出陣してこない。
 二十三日、海沿いを北上し、午後遅く小田原南にある石橋山に到着する。
 片や、頼朝の動きを察知した大庭景親は3000騎を率いて相模国御厨(神奈川県中部)から西進し、二十三日夕刻、石橋山で両軍の衝突となった。豪雨の中の夜戦となったが、衆寡敵せず頼朝の軍は敗北し、土肥の山中に逃げ込むのである。
 
 その時の模様を前田青邨が描いている。切手にもなっていますぞ。
http://pddlib.v.wol.ne.jp/photo/stamp/seison.htm
 今では観光スポットになっている。
http://www.travelersstyle.net/archives/kanto/kanagawa/shitodonoiwaya.html

 大規模な山狩りが行われ、頼朝主従は危機に陥る。だが、頼朝に心を寄せる平家方の武将の梶原景時の機知に救われ、その後の源氏再興につながっていく。

 湯河原行きの話を聞いて、ちょうど「洞窟の源頼朝」の話をしたところだった。その関連で『吾妻鑑』を読んでいて、石橋山の戦いに当たった。考えてみればタイムリーな話題だったんだね。