本多平八郎

 奇跡のような漢(おとこ)がいる。名を本多平八郎忠勝。徳川家康四天王の一人で、桶狭間の合戦の前哨戦である尾張大高城攻防戦に初陣を飾る。その後、57度の合戦に出陣し、常に最前線で鬼神のような働きをした。にも関わらず、生涯、かすり傷一つ負わず、敗けも知らない。まさに戦の女神に愛された武将と言っていいだろう。
 忠勝の兜は「鹿角脇立」の兜である。これが戦場でよく目立つ。そもそも武将は戦場でその存在感を著すことが大切なのだが、鉄砲が伝来して以降、目立つことで戦場で狙撃される危険性が増した。しかし、忠勝、鹿角をかぶり続け、そして鉄砲の玉は、ことごとく、その鹿角を避けて飛んだ。
 長篠合戦図屏風
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Battle_of_Nagashino.jpg
では、左から三扇目の左端、下から五分の二くらいのところに馬防柵の後、黒い鎧兜の人物がいるでしょ。よく見ると鹿角が判るんだけど、それが忠勝である。
 関ケ原合戦図屏風
http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E5%90%88%E6%88%A6%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8#mode%3Ddetail%26index%3D12%26st%3D272
 これはちと小さいが、左から四扇目の中央やや上の左端に黒馬に跨った鹿角の武将が見える。これが忠勝。屏風でも常にいい位置をキープしている。
 どちらかと言えば地味な徳川軍団にあって、戦場においてはスターだった。敵は、黒ずくめの鹿角兜を見れば、恐れおののき、味方は、「不死身の平八郎がきた」ということで奮起した。徳川家が興隆していく創業期において、忠勝の成した功績はまずトップクラスと言っていい。
それにしては、関ケ原合戦後の封土が桑名10万石というのは、如何にも少ないような気がする。まあ家康は身内にはケチだったので仕方がないのだが……。

 この本多忠勝、ワシャ的には好感のもてる戦国武将の中の一人である。その強運には常々あやかりたいと思っていた。とくに鹿角の兜は現物を一目拝みたいと念じていた。それが叶った。
 岡崎市美術博物館に、忠勝がその身にまとい、長篠や関ケ原を駆けた重要文化財「黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)」
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/bihaku/exhibition/exhibition.html
が展示されている。この迫力たるや、いかばかりであろうか。ワシャは黒ずくめの無傷の甲冑に手を合わせ「武運長久」を祈ったのだった。

 そしてもう一つ見たいものがあった。「本多平八郎姿絵屏風」である。これは、子供の頃、「千姫」という通称で流通していた切手の原画だった。くすんだ様な茶色をバックに二人の女が文を読んでいる、そんなシーンを切り取っている。切手には2人の女しか映っていないけれど、実は、左の扇には男が描かれている。忠勝の孫にあたる本多平八郎忠刻である。彼と千姫の間には、この時代には珍しいロマンスの花が咲くのだがそういった話はまた後日。