12月1日に童話作家の新美南吉の話題を出した。そのとき、南吉文献をあさっていたら日記の中に、昭和16年(1941)12月3日の記事を見つけた。
70年前の今日の話である。南吉は、教え子とともに岡崎市西本郷の蓮華寺まで遠歩きに出掛けている。
《冬の遠足。景行天皇皇子狹入彦尊の御墓(ゴボ)と蓮華寺。たがやされた黒い田の土の上を走る鼬。水底にしづむで、泥と同じ寂しい色の亀。東海道の並木の松。立ってゐることに草臥れた人のやうに腕を垂れてゐる。ものうげな枝ぶり。とある家の背戸の高い槇の木にかゝつた数個の烏瓜。しもやけの薬。》
安城高等女学校から、蓮華寺まで5キロほど。女学生の足なら、1時間半もあれば充分にたどりつける。日記の中ほどに「東海道の並木」という記述があるから、蓮華寺から500mほど北にある東海道に出たようだ。今でも街道沿いには、枝を垂らしたくたびれた松がある。それを見て「ものうげな枝ぶり」とは巧い。巧いに決まっている。新美南吉なんだから。
知多の半田市にある新美南吉記念館の「研究紀要」の中に、教え子に施した南吉の作文指導に関する論文がある。これを読むと、南吉の文章術がわかる。拙い文しか書けなかった生徒が、時間をおってみるみる上達していく経過は、とても興味深い。
南吉の指導を見てみよう。
「行をかへた時は一字下げて書き出す」
というような初歩の指導から、
「ゴム革製品の靴は→ゴム、革製の靴は」
「支那事変いらい→支那事変始まっていらい」
などの添削や、
「美しい想像ぢゃないが気がきいてゐる。」
「一寸変わった虫の扱ひ方である。」
「その店の様子はこれで充分だ。その店がどういう感銘をあなたに与へるのか、それをきゝたいのである。」
「よく観、よく書いてある。最後にもう一言、しめくゝりの、くつきりした言葉がほしい。」
などなど、懇切丁寧な作文指導を毎週、50人の教え子に対して行っている。南吉の添削が細かな句読点にまで及んでいるところをみると、生徒たちの作文の一字一句熟読をしていることがわかる。彼が童話ばかりでなく、教師としても真剣に取り組んでいた証左であろう。
また、「研究紀要」の中には、南吉の恋愛の話、東京での南吉なども詳しく書かれている。これは楽しみだ。当分、南吉にどっぷりと浸かりそうな予感がするのだった。