第1回の国勢調査の記念誌を読む

 昨日、ひょんなことから『日本国勢調査記念録』(大正11年発行)を入手した。初めての国勢調査をしたときの記念誌というわけだ。B5版横の和装本3冊が帙(チツ)に入っている。因みに帙とは書物を入れるケースと思ってもらえばいい。
 表紙は黄土色に金字で「日本国勢調査記念録」「第一巻」と右から左に書いてある。中央やや上に、三種の神器(八咫の鏡、天叢雲剣、八尺瓊曲玉)を図案化したシンボルマークが、やはり金色で描かれている。縁取りが曲玉で円を描く。上の極に鏡が据えられ、その鏡の中に「国勢調査」と書かれている。鏡を支えるように剣が立ちその刃の部分に「十月一日」と縦書きされている。曲玉の左右の辺に沿って右側に「一人も漏なく調査すること」、左側に「有りのままを申告すること」と書いてある。
 表紙を開くと、とびらにも「日本国勢調査記念誌」「第一巻」と印刷され、中央上部に朱印の鏡の中に「賜」「天覧台覧」とある。
 次ページは、宮内大臣の子爵牧野伸顯から伯爵小松重春への報告分である。内容は「記念録の編集兼発行人から、天皇皇后両陛下、皇太子殿下に献納を願い出た。このため、御前に差し上げる段を申し入れる」というようなことが書いてある。
 その次からは、侍従長の伯爵から内閣総理大臣原敬あての「御沙汰書」、総理大臣から臨時国勢調査局長官あての「通牒」、調査局局長からの「訓示」と続く。
 その次は、「題字」である。原総理は「欲與天下共坐美風」と書く。「天下と共に美しい習俗の中に坐したい」というような意味だろう。(なんのこっちゃ)
 その他にも内務大臣やら国勢院総裁やら東京市長の書が載っているが、どの人も達筆であられる。福島瑞穂のギャル文字がのた打ち回っているような字とえらい違いだ。

 それらに続いて、「天照大神御神影」「伊勢大廟」「神武天皇御神影」「明治天皇御神影」「天皇陛下御尊影」「皇后陛下御尊影」「皇太子殿下御尊影」以下、皇族がたの御尊影が27影、国務大臣の写真が12枚、両院議長、国勢院総裁、国勢調査評議会職員などなどが18枚も掲載されている。大事だな、これは……。
逓信大臣野田卯太郎」の写真があった。野田?野田聖子野田聖子の爺ちゃんは、たしか……野田卯一という名前だったはず。「卯」つながりで、野田聖子の曽祖父かいな、と思ったら、違っていた。内閣官房副長官松野頼久民主党)の曽祖父でありました。高橋是清徳川家達などのお歴々も顔を揃えており、国勢調査というものが大日本帝国の一大事業だったことがうかがえる。
 内容を見てみよう。国勢調査の意義や起源、沿革、使命などなど詳細にまとめられている。使命の中に「軍事上」という項があり、そこにはこう書いてある。
《一旦緩急ある場合には国を挙げて難に当たらなければならないことは云うまでもないが、其の戦争に要する兵員の根本となるべき人口を正確に調査しておくことは国家として欠くべからざることである。》
 また今では絶対に書くことができないような「不具」といった項もある。
《肉体的又は精神的不具者の数の明らかになることは、社会の有機体即ち人間活動の状態に或る限界を与え、又国民の道徳的発展を指導する上に重大なる関係を有するものである。》
 なにを言いたいのかよく解からない文章である。こういった統計を取るというのも時代だったのだろう。

 大正九年十月一日に実施された第1回国勢調査は、国を挙げての大事業で、その統計は「天覧台覧」に付すべきものである。これは疎かにできないと、国民は思ったに違いない。だから、その統計の精度も極めて高いものであった。
 あれから90年、時は流れ、原総理の言った「美風」は廃れ、この国に依る人々の民度は底を打っている。他者から、あるいは国から金を恵んでもらうことになんの抵抗もなくなってしまった人間のいかに多いことか。こんな状況でまともな国勢が計れるのだろうか。
 あらららら、楽しく「古書」を読んでいて、結局、時世を憂う話になってしまった。

 もう一度、気を取り直して、二巻以降を読んでいこう。
時宜にあった本を、その時期に読む。その場所にまつわる本をその場所で読む。国勢調査の時期に第一回の国勢調査の記念誌を読む。う〜む、これもまた楽しからずや。めでたしめでたし。