疫病退散!

 昨日の「牛」の噺の延長で・・・。

 1月2日から和歌山の熊野那智大社で始まるのが、「牛王神璽祭」である。記事はちょっと古いけれど、これね。

《和歌山・熊野那智大社で霊験高める牛王神璽祭》

https://www.sankei.com/region/news/150114/rgn1501140003-n1.html

 要するに、熊野那智大社別宮で、「牛王宝印」の刷り初めが行われるというもの。では「牛王宝印」とは何かというと、神武天皇の先導をした八咫烏が図案化されて印刷された護符である。「カラスなら牛と関係ないじゃん」という話なのだが、牛の胆嚢内にできる「牛黄」が諸々の病に効能があったとされたところから、それが仏事の中に取り入れられて「牛王加持」というものになっていく。信仰が拡がっていくに従い護符という形に託されていったわけね。

 だからやっぱり「牛王神璽祭」も武漢肺炎撃滅のための一助と言える。

令和3年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 さて、令和3年(2021)丑年が始まりました。それではまずウシお題に一席お付き合いを願います。

 

「丑」という字のことである。この字は象形文字で、「手の指先に力を入れて、強くものを執る形」からきているのだそうな。「牛」とはまったく関係がなく、白川静先生によれば、「十二支はもと十干と組み合わせて日の干支に用いたもので、記号的なものにすぎない」ということで、たまたま☆とか▲というような記号的に、十二支の2番目に割り振られたものが「丑」だったということらしい。ほんらいの意味から言えば拳を握ってガッツポーズをしているというようなことで、それならば武漢肺炎を撃滅して、拳をかざしてきめのポーズをとりたいものだ。

 干支でいうと「辛丑」(かのとうし)、「辛」が「金」で「丑」が「牛」なので、金牛ということになる。おおお、金牛と言えば「花巻の金ベコ」ではないか!これですな。

https://hanamaki-cci.or.jp/local_info/article/kinbeko/

 これがもっとも今年に相応しい牛と言える。ちなみにこの金牛、昭和36年の年賀切手になっている。

https://store.shopping.yahoo.co.jp/yuuhiflower/item00105.html?sc_i=shp_pc_search_itemlist_shsrg_img

 これね。郵政省の切手担当が「辛丑」から「金牛」にたどり着き、「花巻の金ベコ」に想いを飛ばしたんですね。

 西三河知立市に「牛田」(うした)という地名がある。地名の由来は、牛の形をした田んぼがあったというわけではなく、もっと奥深い理由があった。その地で牛頭天王の后の稲田姫を祀ったところから「牛」頭天王、稲「田」姫の「牛」と「田」を採ったという説があるらしい。しかし、なんとなく後付けっぽいなぁ。それなら「牛稲」とかのほうが自然のようだけれど。でも、なんとなくありがた~い説なのでそれでいいか(笑)。

 西尾張津島市にも「牛田」という地名があって、こちらは「海塩田」からの転訛だという。これはかなり信憑性のある説ですな。

 ちなみに知立市域には、かつて「牛橋村」という村が存在していた。前述の「牛田」と「八橋」などが合併してそう名乗っていたようだ。しかしその後、知立町に組み込まれて、造語の地名「牛橋」の名は消え、もとの「牛田」と「八橋」にもどったそうな。もちろん造られた地名より、由緒ある地名のほうが百倍も価値があるのだった。

 花巻の金の牛、奥州で採れた砂金を都まで運んだそうな。岩手あたりからだと日本海を西に向かったのかもしれない。しかし東海道を通ったなら池鯉鮒あたりを通過したかも知れず、そうなったら当然、牛田あたりを金の牛は通っている。あるいは牛頭天王祇園精舎の守護神であり、都に登った金牛の一行が、それを池鯉鮒にもたらしたのかも・・・などといい加減な妄想を元旦から拡げている。

 都つながりで、太秦広隆寺では「牛祭」というものが行われている。寺の行者が仮面をかぶって、異様な服装をして牛に乗るのである。この祭は、「悪病退散」を祈願するものであり、そういった意味から「牛祭」は「武漢肺炎退散」に効果がある。なんとか「牛頭天王」のご利益で「武漢ウイルス」を撃滅していきたいものだ。

 

 そんなことで、丑年の念頭に牛尽くしということで、お粗末さまでした。

令和3年が皆様にとって「うっしっしー」な一年になりますことをお祈りして、新年のご挨拶にかえさせていただきます。

令和2年の七味五悦三会

 今年も一年間おつきあいいただきありがとうございました。令和3年が皆さまにとって佳き年になりますようお祈りしております。

 

  さて、今年の「七味五悦三会」であります。まず「七味」。

 

 これがなかなか厳しい。今年は武漢のクソウイルスのせいで、行動制限がかけられて、今だって外出自粛をしているようことが続いている。だから、どこかへ美味しいものを食べにゆくというのがはなはだ難しい状況になってしまった。

 それでもなんとか探すとしますか。

 直近でいくと、金山駅北の居酒屋「空」で食った白子ポン酢が美味かった。ワンパターンなんだけど、飛切燗(とびきりかん)をもらってこの熱々の酒とともにどっぷりとポン酢に浸かった白子をつるりといただく。ほう「空」のポン酢はやや甘みが勝っている。それがいい。

 白子でいくなら、地元の駅南にある居酒屋OHの白子の天ぷらが絶品だった。まぁワシャが白子が好きなんですね。これを甘みを抑えた天つゆで食す。これは白子の天ぷらが熱々なんで、蓬莱泉の「空」を冷やでいく。これまたウンメー!

 例年なら挙げないと思うが、しいて挙げるとすると、熱海銀座のおさかな食堂で食べた海鮮てっぺん丼かなぁ。新鮮な魚介が丼にてんこ盛りで、ある意味で下品な設えなんだが、味はよかった。値段も2400円となかなかよかったんだけどね(笑)。

 チェーン店なんだけど、焼肉の「がんこ炎」のコリコリ焼きもなかなかだった。初めて食したのだが、これは口に合いましたぞ。最初はミノとかホルモンを頼んでいたんだけど、コリコリ焼きにあたってからは、もう最後までコリコリやっておりました。

 

 名駅の東、国際センタービルを北に上がったところにある「うなぎ家 しば福や」のウナギもよかった。白焼きが絶品だった。ホクホクの白焼きを山葵で食してごらんなさいな。顎が落ちまっせ。

 ウナギのたたきポン酢も美味でした。この店では2品いかせてもらいます。

 

 白焼きで言うなら、JR安城駅南の鰻屋の白焼きも美味かったなぁ。

 なんにせよ、ポン酢系とか、ウナギの白焼きが好きなんですね。

 

 ということで七味はなんとか、苦しいなりにもクリアでござんす。次は五悦ですな。しかし、これも外出自粛で東京にも大阪にも出かけられなかったので、ちょいと難しいかなぁ。

 でもね、なんやかや言いながら行っているんですね。

 やっぱり、12月14日の志の輔独演会、これはたまらない。なにしろ現代の落語会の頂点だと思っている。詳しくは15日の拙の日記をご覧あれ。

 次は12月24日の「大なごやらくご祭」の喬太郎、昇太、彦いち、白鳥の四題噺でゲス。このラインナップでのテーマ統一新作落語は贅沢の極みであろう。これも詳しくは25日の日記に書いた。

 11月の林家たい平の落語会もよかった。たい平が上手であることはもちろんであるが、これほどしっかりと聴きこんだことはなかった。なにしろ無類の芸達者である。その上にサービス精神が旺盛で、客を楽しませることを至上命題としている。見事な芸人魂と言っていい。

 

 津島天王川公園で実施した「わっかプロジェクト。」も外せない。3年ほど関わってきたのだが、ついに天王川公園をビンテージバイクで走行することが出きた。クソ武漢ウイルス禍の中でも、3500人ものギャラリーが集ってくれて盛大なイベントとなった。

 

 最後の悦は、12月の大きな会議のワシャの発表にしておこう。10月半ばから練り込んできて、12月の初旬に大会議室で1時間ほどの演説をぶったのだが、これが気持ち良かった。やった本人は「まぁまぁの出来かなぁ」くらいに思っていたのだが、長年にわたって仕事をしてきた仲間たちの何人かから「ワシャさん、良かったですよ」という高評価を受けた。これはありがたかった。過去に何度も発表をしているのだが、1度もそんな多くの仲間から評価されてことはなかったので、これは嬉しかった。

 

 よし、これで「五悦」完了。そして例年もっとも手強い「三会」だ(泣)。

 まずは「リミット」という可愛らしい女性。この女性との出会いについては、あまり詳細に述べられない(笑)。まぁとにかく会えてよかった。

 

 クソ武漢肺炎のせいもあって、人との出会いは少なかった。まぁ今までの仲間たちに支えられて過ごした1年だったということだろう。お支えいただきました皆さんにはこころより感謝申し上げます。

 昨年は大きな転機を迎えた年だった。その転機を受けて、今年も全力疾走してきた1年だった。しかし、それでも充実した年である。きっと後日に書き残すことはやまほどあった1年と言える。

 

 今年は「七味五悦一会」に終わりましたが、まぁ、いい年だったと言うことにしておきましょう。

 

 それでは皆様もよいお年をお迎えください。来年もまたよろしくお願い申し上げます。

外人部隊は要らない

《小規模自治体に公認会計士ら「経営のプロ」派遣…上下水・公共施設の運営支援》

https://news.yahoo.co.jp/articles/9dad8eaf1e7d33f443c3cc46c3a44ff868e8f017

 記事にこうある。

総務省は来年度、市町村による上下水道や公共施設の運営を支援するため、公認会計士経営コンサルタントら「経営のプロ」を派遣する取り組みを始める。》

 ううむ、総務省はやっぱり「東大出てもバカはバカ」の集団かな(笑)。残念ながら、公認会計士経営コンサルタントは「経営のプロ」ではない。自治体経営というのは不採算な部門でも斬り捨てず赤字を覚悟でもやらなければならないこともある。民間の経営とは根本的に違う。それを「経営の合理化」とかお得意のやつを振りかざせば、帳面上は赤字が減るかもしれないが、大切な自治体行政の根幹が失われてしまう。

 例えば、公民連携とかPFIとか民間との共同の事業がいろいろな自治体で行われているが、民間が入りこんできて成功した事例がどれほどあろうか。

 

 ある自治体では、民間活力の導入とか言って、民間にPFIで公共施設を造らせた。そこにスーパーを張り付けて立体駐車場をこしらえ、施設への集客を増やしていく目論見だ。

 当初の設計協議の時に、ある課長が駐車場の区画や通路部分が狭いことに気がついた。民間の事業者も入った会議の中でそのことを指摘すると、民間の担当者たちは、「痛いところを突かれた」という表情で口ごもってしまった。

 それを見た行政側の事業部長が割って入ってこう言った。

「課長、おまえ4月の人事異動で来たばかりじゃないか。今までの経緯も知らずに口を挟むな」

 その部長の言うとおり、異議を唱えた課長は、1ヶ月前の人事異動で、左遷され今のポジションに飛ばされてきたところだった。「飛ばされた課長」なので「TOBASARE」の頭文字の「T」をとって、以降は「T課長」と呼ぶことにする。

 それでもT課長、食い下がった。異動直後にその図面を見て、直感的に「狭い」と感じたので、周辺にあるスーパーの立体駐車場の区画や通路の幅をメジャーで図りに行っていた。その結果も伝えつつ設計の変更を主張した。

 民間事業者は何も答えないので、部長がまた代弁をした。

「土地の狭い東京ではこの程度の駐車場はいっぱいある。市民もいつまでも田舎の駐車場ではなくて、都会の駐車場に慣れてもらわないといけない」

 それにT課長は猛然と反論した。

「部長、ここは東京ではありません。周辺には平面駐車場を持つスーパーがいっぱいあります。運転の苦手な女性たちがそういったところと比べて狭い通路、狭い区画の、このスーパーに足を運ぶとは思えません」

「おまえなぁ、日本でもトップクラスの建設会社の設計に文句をつけるとは、おまえ何様だ。これは副市長もご了解済みだ。これから設計変更してみろ。何百万かかるかわからないんだぞ。おまえそれを払えるのか!」

 この 部長の発言に、他の部長、課長も賛同し、結局、設計変更なしで動き出すことになった。

 T課長、このことは必ず将来の禍根になると思ったので、副社長のところに直談判に行った。

 ところがT課長、ずけずけと発言をするので副市長から「面会謝絶宣言」を下されており会ってもらえなかった(笑)。

 この段落の冒頭に「民間にPFIで公共施設を造らせた。そこにスーパーを張り付けて立体駐車場をこしらえ、施設への集客を増やしていく目論見」と書いたが、その目論見は見事に外れた。

 やはりT課長の懸念どおりで、狭い立体駐車場は女性客から敬遠され、スーパーはオープン直後から赤字に陥った。行政サイドにも利用者からの苦情が山のように寄せられたが、民間のやったことなので答えようもなく、ひたすら平身低頭をするしかなかった。

 建てた東京のデベロッパーはさっさと撤収し、T課長の意見を封じ込めた部長も市外の人間だったので、退職とともにさっさと自分の自治体に引っ込んで、その後の音沙汰はない。副社長にしても市外の人間だったので、後ろ足で砂をかけるようにして退職金を抱えて去って行った。

 

 残されたのは、使えない駐車場と、近々スーパーが撤退するので、がらんと空いた空間だけである。迷惑を被ったのは、その自治体で生活を営んでいる住民ばかりなのである。

 そのスーパーが消えて、人口にして中心市街地に買い物難民が生じている。だから今、その人口集中地区を巡回スーパーが回っているのだ。この街は限界集落か!

 

 ここでようやく冒頭の話題に戻る。

《小規模自治体に公認会計士ら「経営のプロ」派遣…上下水・公共施設の運営支援》

 それはいいけれども、その小規模自治体に根をはらない会計士でもコンサルでもなんでもいいけれど、そんな奴らが百人きたって何の役にも立ちはしない。おそらく金になるからやるのだろうけれど、お役目の期間が過ぎれは成功しなくても報酬だけを手にしてさっさと逃げていくわさ。使えない立体駐車場を造って逃げていった民間、部長、副市長のように。

 いいかい、総務省、強く言っておくが、会計士やコンサルを自治体に派遣するなら、その自治体に住んでいる人間にせよ。住んでいないなら移住させて、その土地に骨を埋めるくらいの決意、志をもった人間でなければ、必ずや失敗に終わる。

 当初の設計協議に出ていた民間の担当者が、その自治体に住んでいる人間なら間違いなく駐車場の狭さに合点がいくし、部長も副市長も、その街に住んでいればもう少し考えを巡らせたかもしれない。

 残念ながらその街で生まれ、遊び、活動をしてきたのはT課長だけだった・・・というような噺は全国のいたるところにある。

 熱海が成功したのは、キーマンが熱海に根をはっている若者だったからである。自治体経営に外からの干渉は要らない。総務省の出向官僚ですら、その自治体に生活の基盤を移すくらいの気概がなければ、せいぜい補助金を余分に取って来るくらいのことにしか役に立たない。

 よく考えて、机上の空論ばかりを振り回しているんじゃない!

臭いものには蓋

 ついに山口二郎氏が口を挟んできたか(笑)。

山口二郎教授 大村知事リコール運動で不正疑いに「署名の偽造は民主主義の破壊」》

https://news.yahoo.co.jp/articles/5a785e3431d47c2c03de9eb4abfd2e77c61338a3

 ポスト佐高信と言われる山口氏が「署名の偽造は民主主義を破壊する犯罪に他ならない。組織的な偽造に対しては、厳しく刑事責任を追及すべき」と言い始めたところを見ると、その反対側に真実があるんだね。

 どちらにしても山口氏が、大村知事支援に回ったということで、そのことで大村知事の左傾の立ち位置をまたはっきりさせてしまった。

 それほどの思想性を大村知事は持ちあわせてはいない。単にゴリ山のてっぺんで威張っていたいだけの人だ・・・と思っていたのだが、どうも津田大介との交流といい、山口氏がフォローに回ったりと、大村知事の身辺にサヨク臭さが漂い始めている。

あなたのご労苦は大変だった、でも今の現実に目を向けよう

 朝日新聞がおもしろい。社会面だ。

《沖縄地上戦 今も「花火怖い」》と大きな見出しを打って沖縄戦体験者に当時のことを語らせている。今日は82歳の方。

《いまも月に1度は突然、75年前の光景が脳裏によみがえる。「急に体全体にあの場面がわき上がってきて、何もできなくなる。もう我慢するしかありません」》

 それはお気の毒だったとしか言いようがない。沖縄戦が6~7歳である。その頃の体験というのは生涯にわたって影響を及ぼすだろう。でもね、月に1度ならいいじゃないですか。おそらく沖縄戦でなくとも、DVであったり苛めであったり、あるいは事故や病気で大変な思いをしている子供たちもたくさんいる。

 のんびりと生きているように見えるワルシャワだって、月に1度どころか、何度も鬼のような上級生の顔を思い出すことがある。

 少なくとも82歳の方は、戦争を生き残られて、その後の75年を生き抜いてこられた。もう4分の3世紀も昔のことである。もうそろそろ、その悪夢と折り合いをつけて、余生を生きていかれるのはいかがでしょうか。

 記憶というものは、何度もなぞっていくことで定着していく。脳裏に刻み込まれてしまう。朝日新聞の取材になんか応じずに、「いやぁそんな昔のことは忘れてしまいました、わっはっはっは」と笑い飛ばしていれば、きっと忘却のかなたに置いてこられると思いますよ。

 佐多稲子がこう言っている。

《人間には忘れるということがあって、それはひとつの救いにもなっている。》

 沖縄戦が悲惨な現実であったことは間違いない。しかし、いつまでもそこに拘泥していては先が見えなくなる。沖縄戦の犠牲者には哀悼の意を示しつつ、今、さらに悲惨な状況に置かれている人たちに目を向けようよ。

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 上の写真は、清水ともみ『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』(季節社)である。

 いいかい?過去の記憶に身を浸して、花火を怖がっていてもいいけれど、今、沖縄の眼と鼻の先の香港で、ちょっと離れてはいるがウイグルで、チベットで、内モンゴルで、子供たちはもっと怖い思いをしているんだ。あんたは、言葉も文化も奪われなかったが、その子供たちは、臓器も含めてすべてを奪われようとしている。

「わしの心の傷が癒えないから国が救ってちゃぶだい」なんて、あまいことを言っているんじゃない。そんなことを言っている暇があるなら、支那共産党に抑圧されている子供たち、人々に思いを馳せろよ!

 あなたの戦争体験は、確かに悲惨なことだったとは拝察するけれども、もう75年も前のことである。今ここにある地獄に生きている子供たち、人々のことを少しでもいいから考えようよ。

ある結婚について

 ワシャの小学校からの同級生にヘンなヤツがいましてね、かりにSとしておきましょう。そいつとね、高校2年の時に同じクラスになったんですわ。その時も、高校で生徒会長をやるような変わり者で、そんな仲がいいわけでもなかったんですが、高校2年生でしたから、とくにいじめたりとかはせずに、クラスの中では普通の会話をしていました。

 修学旅行が迫って来て、班編成をするということになったんですわ。ワシャは学年でもトップクラスのワルだったものですから(だからワルシャワなんですけど)、どのみち普通の高校生たちは同じ班にはなりたくなかろうと思っていました。こういう班編成の時に、普通の奴らってけっこう無神経で、仲間であつまって「同じ班ね~!」って盛り上がる。仲間のいないもの、一匹狼などにまったく配慮をせずに無神経に喜び合う。

 ワシャの場合、ワル仲間のホウという男が同じクラスにいたんでまったく班編成もこだわらなかった。ワシャとホウがくっついていればどこかの班が吸収してくれる。しなきゃ恐いからね(笑)。だから班編成を教室の隅から、Hとともに見ているだけだった。

 10分くらい「あーでもないこーでもない」とやっているうちに、普通のまじめな生徒なのだがパチンコが大好きという「ケツラギ」くんがワシャに近寄ってきて、「ワルシャワさん、僕たちと同じ班になりませんか?」と、少しオネエのスパイスが入った声で話しかけてきた。パチンコ仲間3人のケツラギ、フラハヒ、ブブビまでは固まったらしいが、その他の人選がなかなかいいのがいないようだ。もちろんワシャはどこでもよかったので「いいよ」と返事をした。

 20分くらいすると、男女別でグループが固まり出している。ワシャの周囲にはホウとケツラギの仲間がたむろしている。

 ところが前述の生徒会長のSが浮いていた。どこの班もSのあるSを敬遠した格好だ。こういうことを普通の無神経な生徒は平然とする。どこにも仲間をつくれないSはおどおどしている。

「おい、S、オレの班に入れよ」

 ワシャが声を掛けた。ケツラギは表情で拒否っていたが、そんなものは関係ない。ワシャが入れると決めたんだ。文句は言わせない。Sは、一瞬だけ「助かった」という顔を見せたが、すぐさまいつもの喧しいSにもどって、「おうおうワルシャワ、おまえの班も悪くないなぁ、ガハハハハ」と呵々大笑したのである。ケツラギたちは、うんざりとした顔をしたけれど、「いいじゃねえか、学校トップのワルから生徒会長まで揃った班なんてそうないぜ」とホウがまぜっかえして、ワルシャワ班は成立した。

 この班が、修学旅行中、もっとも波乱万丈で楽しい3日間を過ごすのだが、その話は今日の本題とは違うのでまたの機会にゆずる。

 

 そのSのことである。一緒の班になってから急速に親しくなって、生徒会活動をしながらワル連中ともつきあうおもしろい立ち位置をとってくれた。なかなか言えないこともあるので、ここには書かないけれど、やばい橋もいくつか渡ったものである。

 その後も付き合いが途切れずに、現在も一緒に酒を飲んだりしているんですよ。

 

 Sが高校時代に付き合っていた娘がいた。大学時代にも交際は続き、Sが就職することになって「結婚をしよう」ということになった。長く付き合っていたし、性格も穏やかでいい子だったから、Sの周囲の友人はみんなその吉報を歓迎した。

 Sの彼女は、隣町に広く農地を持っている資産家の娘だった。その父親のところへ挨拶に行ったのだが、その家の立派なことに驚いたという。

 座敷に通され、父親の前で「お嬢さんをください」と頭を下げた。しかし、父親は、強硬に反対した。

 理由は、家の格が違うというものだった。Sの父親は体調が悪く、働くことがなかなかままならず、だからSはずっと市営住宅住まいであった。それでもSは大学を卒業し、地元の大手企業に就職した。それに娘とは6年越しの付き合いで、娘もSと結婚しようと思っているのだ。

 しかし、父親はぜったいに許さなかった。地元で何代も名士としてやってきた家柄である。その一族の大切な娘をどこの馬の骨とも判らない男にくれてやることなんかできない。そういうことであった。

 Sは立派だった。おそらく資産家の家より立派だった。

「わかりました」

 と、静かに答え引き下がった。

 確かに、資産がないことは事実だったし、己の愛以外になにも娘に与えるものを持ち合わせていない。父親が娘を心配する気持ちも理解できた。

 彼女の今後の幸福を考えた。自分と一緒に駆け落ち同然の結婚をするよりも、父親や家族、一族に祝福される幸せな未来もあるに違いない。

 Sは、彼女に別れを告げて去って行ったのだった。

 

 Sはそれから何年かして、前の彼女よりもずっときれいで性格のいい女性と知り合い、目出度くゴールインをしたのだった。ワシャは結婚式で友人代表として挨拶をさせてもらったが、そりゃあきれいなお嫁さんだったわい。その奥さんはホントにたよりになる人で、2年前にけっこう大事がワシャの身の回りで起きたのだが、その時に先頭で手伝ってくれたのも彼女だった。いい嫁さんをもらったもんだわい。

 Sはそれからよく働きましたぞ。結局、やつは2軒の家を建てて、今では子や孫たちと賑やかに暮らしているのじゃ。

 

 さて、ここからが本題である。

 今、秋篠宮皇子殿下のご長女の眞子さまと「結婚」ということで何かと話題になっている小室圭氏のことである。もうここまでの状況が煮詰まってしまったら、一刻も早く身を引くべきだ。資産家とS程度の格差でもSは身を引いた。彼女の、そして彼女の家の幸福を願ってのことである。

 残念ながら眞子さまの所属する天皇家と小室家では背負っているものの大きさがまったく違っている。それは小室家だけではなく、S家でも、ワルシャワ家でも同様で、一般庶民とは別次元の重き荷を背負っておられるのである。そのことにまで考えが及べば、Sのように身を引くことがもっとも賢明な選択であると思う。いかがか。